キリスト教布教と先住民族の精神疾患「madness(狂気)」
※この記事は非常に性的な内容を伴います。
※人によっては差別的と捉える言葉や表現があります。出来る限り配慮はしますが完全な配慮は不可能ですので、気になる方は読まれないほうが良いでしょう。
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この記事でわかること
- 先住民族や原始的な暮らしに精神疾患が存在しないって本当?
- 先住民族コミュニティ独特のストレスや抑圧構造
- 男性優位が男性自身を苦しめるという構図
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デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの大著「万物の黎明 人類史を根本からくつがえす」は2023年に邦訳が発売され、話題になった労作です。
この本では、人類史におけるこれまでの西洋主義的で一面的な見方を改め、より俯瞰した目線で人間本来の幸福が何であるのかを導こうとしたものです。
元々哲学的内容を含む人類学書を邦訳したものなので、少々理解が難しいのですが、この中で次のような事が述べられます。
人間は、現代の先進国のように「身の安全を保障された社会」を幸福と思っています。
家を出て食料を調達しようと思ったら、林から突然虎が飛び出してきて命を失ってしまうような事は、現代の先進国では滅多にありません。ゼロではなくとも、このような危険からは随分遠ざかっています。家を出てコンビニまで歩いて昼食を買いに行くことに、命を失うかもしれないという緊張感をおぼえることはまずありません。日本ならば尚更。
しかし、発展途上国や未文明社会ではどうでしょう。
「万物の黎明 人類史を根本からくつがえす」では、次のように説明します。
後進国や未文明社会では、川へ水を汲みに行く途中に、突然襲い掛かってきた虎に殺されてしまう可能性がある。用意がなければ、これを回避することは困難です。
しかし先進国の人間には想像しにくいが、もしこのようにして重傷を負う・殺されることになったとしても、自身の安否を気にかけてくれる人がいて、万が一のことがあった時に悲しんでくれる人がいる社会も、認識としては「安全だ」ということになるのです。つまり、人と人との繋がりこそが精神的な意味での真の安全であるという事ですね。
近年このような論調が流行ったこともあり、ネット上で「先住民族に精神病やうつ病は無い」「文明化前に精神疾患はレアケースだった」と言う人々がいますが、それは本当なのでしょうか。
結論から言うと「精神疾患はあります」
発展途上国や先住民族にも精神疾患や自殺は存在します。
ただ、未接触部族であるうちは「接触がない=調査がおこなわれていない」ので不明ですが、罹患者はしっかり存在しています。
そしてその精神疾患には名前が無く、ただ「madness(狂気)」とだけ呼ばれていることもあるのです。
しかし注意すべきこともあり、「国際医学情報センター」が出しているアラスカ先住民の自殺率や、「厚生労働科学研究成果データベース」で公開されているニュージーランド先住民の自殺率は文明化と共に明らかに年々増加しており、未接触時にどのような状態であったのかは不明なのです。
北アメリカ先住民(インディアン)自治区では近年アルコール依存症患者が激増し、これが原因の自殺率も増加しています。南アメリカの先住民族に対しては、近年まで商業目的での殺戮がおこなわれていた場合もあり、データ以前に何もわからないまま歴史から完全に潰えてしまった民族も存在します。
現代の先住民族の殆どは、多かれ少なかれ文明社会の影響を受けています。アマゾン奥地に暮らし、純粋な狩猟採集生活を営み、最低限の言語しか持たなかった民族ピダハンですら、今は貨幣社会の影響を受けて資源を搾取されている状況です。
では、極力西洋文明・文化の影響を受けていない状態でのデータはないのでしょうか?
キリスト教(教義宗教)は在来宗教を駆逐してしまう
Gilbert Herdt(ギルバート・ハード)はセクシュアリティ研究で著名な人類学者です。主に南半球オセアニア(大洋州)を中心とした先住民族のセクシュアリティの調査で知られます。
彼はパプアニューギニアについての1986年の論文「Madness and Sexuality in the New Guinea Highlands」で西洋文化流入以前から存在するニューギニアの先住民族の精神疾患について述べています。
オセアニア一帯の先住民族に対しては、およそ1920年代にから本格的な調査が開始されましたが、実は人類学的調査よりも早くに宣教師が現地で布教活動を開始していたため、既に現地の在来宗教や儀式・文化は消失しはじめていました。現地入りした人類学研究者の調査は迅速に行われ、1960年代までには多くの調査報告や発表が上がりました。
しかし宣教師による布教活動は現地の文化をキリスト教的思想に統合・分化・変容させ、神を表す呼称をはじめとした言語や儀式まで急速に駆逐してしまいます。このため非常に多くの先住民文化が消滅し、ニューギニア古来の研究情報はほぼこの頃(60年代)までの記録に依存しています。
たとえばJ.Van.BAAL(J・ヴァン・バール)「Dema: Description and Analysis of Marind-Anim Culture (South New Guinea)」はニューギニアの首狩り族であるマリンド族についての神話や文化、儀式の調査報告であり、現在でも貴重な資料として取り扱われています。
しかしバール氏は後年になってこの書籍の内容に対し
「今だから言うが、これで合っているのか、正直言ってわからない。当時既に行われなくなった重要儀式などを実際に見た人間はおらず、全て伝聞でしかなく、証言の辻褄も合わない。でも当時の人々は全員死んでしまったので、今更確認することは出来ない。」
と述べています。
現在のニューギニア先住民の様子は里見龍樹「不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学」(2022年)で語られますが、もはや旧来の宗教や信仰は失われていると言って良い状態です。
そしてかつての言語も完全に失われているので、もう誰も曖昧な文脈を説明できなくなっているのです。
1980年のアンソロジー「Annales Aequatoria」掲載の「MELANESIAN GODS」は人類学者AERTS Theo(テオ・アーツ)が寄稿した論文です。
論文の本来の主旨とは少しずれる話ではあるのですが、ここではキリスト教伝来がどのようにしてオセアニアの文化を「過去のもの」にしてしまったかを書いています。
現地入りした宣教師は、そのままの形でキリスト教を布教することをしません。というか、出来ません。
当然ながら先住民族には彼らの信じる神がいて、その地に根付いた神話や文化があるからです。特にオセアニア神話には日本神話との類似点も多く、これがどういう意味かと言えば「神(多神教)は自分たちの遺伝的な直接的祖先であり、かつて実在していた」ので、現地の神を否定することは困難だからです。
しかも部族によってはその神の遺体と言われる骨や肉を保存しています。これはキリスト教的価値観ではありえないことです。西洋圏の神は人間とは全く別種のもので、遺伝的な祖先ではありません。
このため、オセアニアのキリスト教布教や浸透には他地域よりも時間がかかったと言います。急速とは言うものの、それでも一応はじんわり、ゆっくり教化したのです。ですから現地の純粋な情報を採取する余地があったのかもしれません。
さて、宣教師は現地の言葉をキリスト教に適用します。現地の人がわからない言語では教義が浸透しないからです。
この際、困ったことが起こります。
例えば古いフィジーの言葉では、生きている精霊を「ラウマ」、死んだ精霊を「ディラヴァ」、悪さをする精霊を「アタネ・タノ」と言います。これはあくまでもこれらの言葉に対する一面的な意味であり、それぞれの言葉はこれ以外にも広い意味を持っています。
しかし宣教師はこの中で、最初は死んだ精霊を表す「ディラヴァ」、次に生きている精霊を表す「ラウマ」をキリスト教の神を表す現地名として採用しました。この結果どうなるのかと言えば、本来の「ディラバ」「ラウマ」の意味が「ヤハウェ(キリスト教の唯一神)」に一本化され、元々の意味は失われました。
そうして現地では、80年代(およそキリスト教布教から50年後)には誰も本来の「ディラバ」「ラウマ」の意味を説明できなかったのです。マリンド族を調査したJ・ヴァン・バールの場合でも、調査開始が1920年代、出版が1960年代、「完全に失われた」と言っているのが1984年ですから60年程度の時間で失われています。
こうなってしまうと、ものの数十年で本来の言語の意味が消失してしまい、調査中に出てくる「ディラバ」「ラウマ」という言葉が何を意味しているのかわからなくなるのです。
しかし、これはまだマシと言えます。
西ソロモンでは、1920年の時点で人を導く高貴な先祖の霊を「カイア」と呼びました。
これは1940年代の時点で
(原文)
an evil omnipresent spirit, who afflicts people with deformity and diseases, and is the cause of earthquakes, eruptions, etc., and lives in craters, dark glens, etc.
(訳文)
人々を奇形や病気で苦しめ、地震や噴火などの原因であり、クレーターや暗い谷間などに住む、邪悪な遍在霊。
…このように変化しています。
たった20年で、本来の意味が真逆になってしまっているのです。
この理由は想像に容易く、在来神Disだと思われます。日本でも仏教が在来神に対して同様の事を行なっています。
しかし布教は無関係で、世代の移行で自然に意味が変化することもあり、このような事から無文字文化圏のかつての信仰を知ることは困難なのです。
この件に関して文化研究上は「宣教師たちはGODという語に統一して布教すべきだった!」と言われたりするようですが、連携など取れるはずもなく後の祭りです。
個人においての50年は長い時間ですが、人類史的には一瞬と言える時間で、このように現地の信仰は上書きされてしまいます。
たとえ先住民族の信仰や文化が紀元前6~5000年からと推定されようが紀元500年からだと推定されようが、失われる時は一瞬なのです。
ニューギニアの独特な性観念と抑圧
Gilbert Herdt(ギルバート・ハード)はニューギニア先住民の精神疾患に関する報告を挙げています。
これに病名は無く「madness(狂気)」と呼ばれ、ほぼ男性に発症します。
医学的には「精神疾患」もしくは「暴走状態(衝動的に暴れる)」と思われる、と述べており、現地ではこれを「野人」という意味の現地語で呼びました。
これらはニューギニアに広く見られ、調査は中西部を中心に行われたようです。
なぜ主に男性が精神疾患を罹患するのか。
これはハード氏だけではなくほぼ共通の答えとして、ニューギニア文化が一見男性優位の父系社会でありながら、同時に男性は膨大な文化的抑圧に晒されているからです。
父権、父系の原始的社会が男性にとって過ごしやすい社会なのか?というとそんなことは無いというのが答えであり、特にニューギニア(特に首狩り族)ではそれが極端なのです。しかも「madness(狂気)」を発症するのは青年期(若い)男性であり、彼らは「地位の低い成人男性グループ」に該当しています。
比較的資料の多いマリンド族で説明するのが良いでしょう。
マリンド族は首狩りを行なう先住民族で、特にこの「madness(狂気)」研究に関し、わかりやすい研究対象とみられたようです。
この文化について詳細に語りすぎると長くなるので(あと性的部分が多すぎる)、今回は必要最低限にします。またやります。
※非常に性的な表現がありますので注意
マリンド族の男性は、5~7歳で母親から引き離されて、男性のみの共同住居に軟禁されます。基本的に15歳程度に成長するまでこの家から出ることは出来ませんし、母親や女性に会うことは許されません。この共同住居で、独身男性や子供のいない若い既婚男性と同居します。
ここで10年間、親類関係にある男性が指導役としてつくのですが、毎日儀式的な口腔性交と精飲をさせられます。
よく同性愛儀式とか言われて誤解されていますが、愛とかそういう類のものはありません。むしろ、性愛を持ってはいけませんので事務的な態度です。拒否すれば暴力的に対応されますので、従うしか方法はありません。
ほとんどのマリンド男性にとって、これらの経験は強烈なトラウマになっています。この件に関して調査したハード氏の質問に対し男性たちは、突然泣きながら怖かった辛かったと訴えたり、嗚咽や思い出して激怒する男性など、皆一様にトラウマを抱えてており、しかし普段はその心の傷に固く蓋をして生きています。
そしてこの精飲儀式の完了と共に、男性は首狩りの「義務」を負います。
首狩り族と聞けば残忍で攻撃的な印象がまず浮かびますが、ハード氏曰く、基本的にマリンド族をはじめとしたニューギニアの男性は非常に優しいと言います。それは家族や部内に対してだけの意味ではなく、外からの訪問者に対しての親切さも含まれます。
そして彼らは基本的にプロポーズを男性側からおこなうものの、女性側に決定権があるので普通に振られることもあります。
一夫多妻が主な地域ですので(現在は一夫多妻を法で認めながらも、選択は各文化などによって異なります)、能力の高い、または人気のある男性が複数の妻を持ち、生涯妻を持てない男性もいます。皆婚社会ではありません。
このような文化の裏側にあるのは「女性の完全性」に対する信仰と、そこに対する男性の「存在証明としての儀式」です。これはハード氏はじめ、複数の研究者の語るところです。
女性の完全性と、男性の不完全性
ニューギニアをはじめ南洋の多くの先住民では、女性を「完全な生物」であると見做します。
女性は産まれて初潮を迎え、子供を産んで母乳で子を育てます。ここでの男性の役割は「精子を出す」だけです。つまり、精子さえ渡してしまえば男性の存在は不要なのです。
狩猟採集なら女性だけでも出来る。園芸(農耕)も女性だけで出来る。首狩りも希望するなら女性の参加自体は可能なので、男性が特権的に出来ることは極端な話、射精だけであり、男性には月経も妊娠出産も母乳も出せないのです。
だから男性には、妻の月経開始に合わせて鼻血を出す文化があります。草の枝を鼻の穴に入れて、無理矢理鼻血を出します。妻が血を出すなら男も血を出す。
そして彼らは早ければ5歳、遅くても10歳には息子を母から引き離し、精飲儀式をおこなう。拒否権はありません。これらの儀式は厳格に女性の参加を禁止しています。
男性は他に、園芸の権利を保有します。これは農耕文化圏では珍しいとよく言われますが、狩猟と同様に食料調達のための「園芸」は男性の権利であって女性のものではありません。
女性の仕事は料理であって、あくまでもその材料を育てるのは男性の役目です。これは出産や授乳を特権的に行なう女性性に対抗して「家族を養う」特権を独占している状態で、それは男性にとっての存在証明でもあるのです。
だから男性は女性に対し「獲物も取れない弱い存在」という蔑視を向けますが、実はこれはある種のプロパガンダであって、事実ではありません。実は強く希望すれば、女性の狩猟参加は認められているし、参加する女性もいます。
重要儀式もほとんどは男性が特権的におこない、参加できる女性は限られます。これは重要儀式の演技・執行が男性であるという意味であり、女性は観覧的な参加をします。
とは言えこれはアフリカでもみられることなのですが、狩猟のように女性が男性の仕事(儀式ではない)に参加することは可能なのです。女性が「私は男のように強く生きたい!」と言えば、儀式性の強くない仕事への参加は可能です。
決して「女は参加できない!」などと否定されたりはしません。
本来は男性のみで行う首狩り遠征にも女性の参加は可能ですし、その場合は周囲の男性は参加女性の危険が少なくなるように、皆で守り、配慮します。
しかしその逆は無いのです。
女性が男性のように生きたいと訴え許されても、男性が女性のように生きたいという訴えは聞き入れられません。
まず女性に対する完全性という信仰があり、それは逆説的に男性の不完全性を語ります。その不完全性を補うように、男性は女性よりも困難な役割を担い、女性の生理現象(妊娠出産に伴うもの)に対抗するように鼻血を流したり、疑似出産を行ないます。そして食料調達手段を特権的に護るのです。その結果、女性を弱いと蔑視することで逆に男性の弱さを認めない社会が形成されています。
ニューギニアではかつて男性の肛門性交も盛んでしたが、これも誰もやりたくてやっていたわけでは無いそうです。実際に肛門裂傷等で重傷を負う場合もあり、西洋文化流入時には衰退しはじめていたそうですが、これもおそらく鼻血儀式や疑似出産と同様に、「疑似的に女性特権を侵害する行為」だったのではないでしょうか。
こんなことはもうやめようという声に、異を唱える男性は皆無だったそうです…。
精飲儀式も同様で、これも女性の月経に対する対抗儀式です。これはまた別途書きたいと思ってます。
突如発症し、寛解する「madness(狂気)」
ハード氏は「madness(狂気)」について、25年にわたる人類学者の報告をまとめて次のように説明します。
多動、他者に対する脅迫的発言、攻撃性の増加、支離滅裂な言葉を叫ぶ、性欲の異常、無差別に暴力や脅迫をおこない、理解のできない奇妙な行動を取る。これらは私たちの価値観でも正常ではない行動ですが、当然ながら先住民族のコミュニティにおいても異常と認識されます。
この狂気は現地語で「野生」「野生の人」「野人」という意味合いの言葉で表現され、若い男性に見られる症状です。女性の発症はレアケースです。
そしてこの「野生」「野生の人」「野人」という現地語は、現地の「耳の閉塞感」「聴覚障害」という慣用句でもあり、この意味は「コミュニケーションが取れなくなってしまった人」です。これは錯乱による難聴であり、耳の機能としての難聴ではありません。
攻撃性の増加というのは単純に怒りっぽくなるとか軽いものではなく、武器を用いて、衝動的ではなく比較的理性のあるような素振りで他人に対し危害を加えると言います。北部のアベラム族は首狩りを行わない人々ですが、これが原因で殺人に至った報告があり、その対象は無差別。アベラム族でも男性に対する抑圧的な文化が存在していました。
これらの症状は一日か二日で寛解し、長期間持続しないとされます。
治療はシャーマンによって行われ、発症した者は悪霊に憑りつかれたのだとされて、身動きが取れないように拘束状態に置かれます。
そしてシャーマンが施す治療は「耳の治療」です。罹患者は何らかの理由(悪霊・病気・魂に対する危害)で耳の力を失った状態なので、シャーマンの治療は耳に対するものなのです。この治療によって「他人の言葉を聞く力」を回復させ、再び社会性を取り戻し、また普段の生活へ戻っていきます。
この「耳の病気」という認識は人間以外にも及んでいて、暴れる家畜なども耳が聞こえないという認識になります。耳を聞こえなくしているのは、藪の中にひそむ悪霊です。社会的抑圧やストレス、トラウマなど存在しないし、悪いのは「耳」「悪霊」なのです。
私の親戚のおばあさんが、全然人の話聞かない人の事を「耳日曜」って言ってたんですが、この認識がそのまま拡大したようなものです。そしてシャーマンの治療は「禊」でもあるのです。悪霊が耳を聞こえなくして社会性を奪った、だから狂った、悪霊を追い払い耳が治った、だから罹患者は被害者であり、シャーマンの悪魔祓いは罹患者の禊です。
「madness(狂気)」罹患者が悪霊に憑りつかれていた時のことは、悪霊の仕業であって、罹患者の仕業では無いのです。だから、一日や二日で全快するのです。
たとえ、罹患中に恨みのある相手を殺してしまったとしても。
では女性の「madness(狂気)」とは?
このような「madness(狂気)」罹患者はほとんどが男性で、女性には少ないと言われます。これにはニューギニア先住民の男性に対する社会的ストレスの大きさが関係するというのが概ね研究者の語るところですが、女性にも少数ながら罹患者は存在するのです。
では彼女たちはどのような境遇の女性だったのでしょうか。
女性の「madness(狂気)」は、25年に及ぶ記録の中でたった二件です。しかし、うち一件をハード氏が直接目撃し、報告していること。そしてもう一件も、Marie Reay(マリー・レイ)から1977年に「Ritual Madness Observed: A Discarded Pattern of Fate in Papua New Guinea」で詳細な報告がされています。
1975年報告の20代女性は、ある口論がきっかけで精神に異常をきたし、この状態は1~2日でおさまりながらも再発を繰り返し断続的に数週間継続。
性的逸脱、錯乱、男性の儀式用武器で武装し踊り続け、日常生活を放棄しました。性的な逸脱行為が顕著に語られています。攻撃性はゼロではありませんが、特段高まりはしなかったようです。
彼女らは明らかに自分たちの主張を通すために「冷静に狂気を装って」おり、自らの目的達成のために「madness(狂気)」を利用していることは明白だったと言います。つまり、男性の「madness(狂気)」もそうではあるのですが、女性の場合はもっとしたたかに「madness(狂気)」を利用しているわけです。
この女性らは家庭内に大きな不和を抱えているということが共通点で、どちらの女性も夫が不倫常習者・支配的・暴力的であり、その不満がひどく抑圧された状態でした。
つまり、この苦境に抗うために「madness(狂気)」を利用して社会を巻き込み、私の訴えを聞いてくれと助けを求めているのです。実際にこの女性の「madness(狂気)」により、一時的ではありますが彼女の訴えはある程度聞き届けられたようです。
当然、原因は悪霊の仕業ですので彼女に咎はありません。
実は同様の現象はアフリカ先住民のあいだでも似たような報告があり、「madness(狂気)」は彼ら、彼女らなりの政治的目的達成手段という一面もありました。
まとめ:世界の暗黒の必然に立ち向かうための装置
ニューギニアは父権社会ですが、男性は強い社会的抑圧に晒されています。しかし父権社会ですから、女性も男性から抑圧されています。
男性は性的ではなく、女性は性的に誘惑する存在。
男性は不完全で、女性は完全な存在。
男性は生まれながらに戦士であり、女性は弱く庇護されるべき存在。
これらはどれもがステレオタイプで極端でアンバランスで、社会はこれを「当たり前」としています。
ニューギニアの男性は、若い時ほど抑圧的です。年を取るにつれて権力を持ち、自由になっていくのです。首狩り遠征がある部族の場合でも、基本的に遠征参加は若者の仕事です。(補佐的に数名の年上男性が同行します。)
またニューギニアの女性は逆で、年齢を重ねるにつれて抑圧されます。女性の場合は皆が口をそろえて少女時代が人生の絶頂期だったと言い、自由で義務もなく、青春を謳歌します。やがて結婚と共に抑圧的な生活に晒されますが、これには伴侶の性質も大きく影響します。
しかし女性には、母を含む互助的な同性コミュニティがあります。マリンド族は既婚でも男女別の住居が一般的ですが、女性がコミュニティ内では比較的穏やかに助け合って生活している様子に対し、男性の住居ではまともな会話禁止の精飲儀式をほぼ毎晩、成長後は提供側として行います。
この彼ら彼女らの過渡期である「成人男女」のとき、「madness(狂気)」は自分の抑圧された心を爆発させ、認めさせるための装置でもあるのです。
男性に発症者が多いのは、男性に対するストレスの大きさに関係すると考えられます。皮肉にも、男性が自身の主権を守るために成立させた伝統が、男性自身を苦しめているのです。
ハード氏は「madness(狂気)」を
confronts the dark neccssity of the world.
(世界の暗黒の必然に立ち向かう。)
と言いました。
これはクロード・レヴィ・ストロースが提唱した「野生の思考」そのものです。
未開社会であっても、そこに体系的な学問が無くとも、人々は独自の方法で合理的な社会を形作るのです。
悪霊が原因であるという理由がまかり通る未開社会にはその社会なりの、人間社会の秩序を守るための「madness(狂気)」のような装置が必要なのです。
「madness(狂気)」は西洋医学的には精密に研究されていません。
なのでこれを精神疾患である、と言ってしまうのは正確ではないかもしれません。しかし、コミュニティ維持の為に必要な装置ではあったでしょう。
歪を生まない完全無欠の構造や装置なんて、恐らくこの世には存在しません。その調整のために存在している「曖昧さ」は必要なのか、それとも社会構造の中に曖昧なものなどあってはならないのか…。
以前書いた憑物信仰の記事の中で、日本ではうつ病や糖尿病などの成人病が、憑物として扱われていた可能性を書きました。また、日本には旅人を「マレビト」として歓待する風習を持つところもあります。そのマレビトは元々集落から排斥・逃走した人間であった可能性を、飯島吉晴氏などは語ります。
人間は強靭な精神を持つ者ばかりではありません。
人ではない何かのせいに出来る「曖昧さ」と、それを許容できる文化は、間違いなく世界から失われつつあります。
参考文献
AERTS Theo「MELANESIAN GODS」(1980年)
Gilbert Herdt「Madness and Sexuality in the New Guinea Highlands」(1986年)
里見龍樹「不穏な熱帯 人間〈以前〉と〈以後〉の人類学」(2022年)
J.Van.BAAL「Dema: Description and Analysis of Marind-Anim Culture (South New Guinea)」(1966年)
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ「万物の黎明 人類史を根本からくつがえす」(2023年)
Marie Reay「Ritual Madness Observed: A Discarded Pattern of Fate in Papua New Guinea」(1977年)


