あの世とこの世の交差点「辻占」
古来「交差点」や「橋」は、あの世とこの世の境目と言われていました。
古い時代の人々は、このような交差点や橋を「辻(つじ)」と呼びました。
「辻」が現世と常世、とりわけ黄泉の国と交わる場所だという信仰は非常に古くから存在しています。
日本神話のイザナギ・イザナミの黄泉国訪問のエピソードが最も有名ですが、京都にある一条戻橋(いちじょうもどりばし)や六道の辻にも類似の伝承があります。
“渡す”であったり“交差する”事を、昔の人は現世と黄泉の渡しとして見立てたのです。
怪談やおまじないにも「交差点」が関係するものは多く、ホラーゲームなんかでも交差点が題材になっている事もありますね。
「つぐのひ」第二話とか、「街~運命の交差点~」なんか有名ですよね。
前者はわかりやすく交差点が孕む心霊的恐怖を描いているし、後者は普通に名作なんでおススメです。
「辻占(つじうら)」は「橋占い(はしうらない)」「夕占(ゆうけ)」とも呼ばれ、そんなあの世とこの世の境界線の上で、この「境界を守護する神」に対し神託を求めて、昼と夜の境目である夕刻に行う「ト術」の一種です。
辻占で使われている「ト術」は、その日その時その瞬間の因果を必然として受け取り、吉凶を判断する占術です。
奈良時代に既にあったと思われる「辻占」は、その手軽さから人々に広く知られるようになりました。
しかし現代では、一部地域を覗いてほとんど知名度の無い占いなのではないでしょうか。
今回はそんな「辻占」についてお話していきます。
「辻占」はどうやって占うの?
辻占にはいくつかの方法があります。
長い歴史を経るうちに辻占は様々な形に変化しましたので、辻占は現在では全く形式の異なる数種類が存在しています。
そのうちの代表的なものが、以下の4つです。
①古い時代の基本のやり方
黄昏時(夕方)に、柘植の櫛(つげのくし)を持って交差点か橋に立って、櫛の歯を鳴らす。
そこに祀られている道祖神に念じながら、道行く人の会話の内容に耳を澄ませる。
最初に耳に入った会話の内容で吉凶や神託を判断する。
この方法には非常に多くのバリエーションが存在し、雨の日に橋を渡り切るまで転倒しなかったかどうかや、櫛の歯を鳴らしながら呪歌を歌う、など数えきれないほど多くの形式がある。
②東大阪の瓢箪山稲荷神社で行われる辻占
明治時代頃に宮司さんの商売魂によって成立したと言われる瓢箪山稲荷神社の辻占は、趣向を凝らしたおみくじの形を採っています。
フォーチュンクッキーのような煎餅で作った瓢箪の中におみくじが隠されているものと、炎で炙り出すタイプのものと、焼き抜きタイプ、普通のおみくじと色々あります。
③石川県金沢の縁起菓子
これもほぼフォーチュンクッキーで、花のような形を模したお菓子(煎餅)の中におみくじが仕込まれています。
正月に食べる縁起ものとされています。
④その他の方法
江戸時代に多かったようですが、交差点に「辻占箱」と呼ばれるおみくじBOXが設置されたことがあったようです。出版物としてのおみくじ化、他の占いとの融合など、補足しきれないほど様々な形に変化したようです。
上記の中で、現在でも現役なのは「②おみくじ」と「③石川県の縁起菓子」の方法です。
「辻占」とは本来
“あの世とこの世を結ぶ交差点で、その場所を守る神の神託を得る占い”
ですので、②も③もその意味では本来の意義は失われています。
ただしこのような事は、民俗学では「絶対に起こる現象」として理解されています。
習俗というのは、最初はしっかり意味があって発生します。
そして、後の時代の流れで本来の意味は失われ、「形式」だけが残り、「簡略化」されるのがセオリーです。
それでは、まず「辻占」の歴史を確認するために、この占いが登場する最古の文献を確認して見ましょう。
最古の辻占の記述は「万葉集」にある
辻占が最初に登場するのは、奈良時代の「万葉集」です。
「万葉集」とは、7世紀後半~8世紀後半に編纂された、日本最古の歌集です。
ここに4件以上の夕占の記述があり、その中に、このような歌があります。
「逢わなくに夕占を問ふと幣(ぬき)に置くわが衣手(ころもで)は又そ続(つ)ぐべき」
(万葉集第11巻2625番・作者不明)
夕占とは、辻占のことです。
文学研究者の古橋信孝氏は、この歌の内容から
「八十の衢にいる道祖神と夕卜の神が並べられ、その神々に祈り、神託を得る為に着ている衣の袖を切って幣にしていたのではないか」
と推測しつつも、他に記述が無いために確定は出来ない、とのこと。
これは、難しい言葉を使ってますが、
「数々の交差点にいる道祖神からの神託を得るために、衣の袖を切って、それを神への供え物にしたのではないか?」
という意味です。
では、まず順番に考えましょう。
「万葉集」は7世紀後半~8世紀後半(奈良時代末頃)に編纂されています。
7世紀は、西暦601年からを指します。
上記の2625番の歌は、作者不明です。
万葉集の歌は、一応建前としては皇族・貴族の他に一般庶民や農民の歌も入っているということになっていますが、これには懐疑的な意見が強いようです。少なくとも、編纂者か誰かの手が入っている事は間違いない様子。
「万葉集」内の別の歌の中に、大伴宿禰家持という人が歌っている「夕占」というキーワードを含む別の歌もあるのですが、彼が和歌を詠んだのは、西暦750年頃(奈良時代)と思われます。
つまり、西暦750年頃(奈良時代)には「夕占」は説明もなく和歌に登場するくらいには、認知されていたという事です。
では、それだけ覚えておいて、一旦話を変えます。
神託を乞う「道祖神」「塞ノ神」とは?
一方、話は移って辻占の神託を乞う「道祖神(どうそじん)」とは、「塞ノ神(さいのかみ)」とも呼ばれています。
この「塞ノ神」の最も有名なお話は、日本神道の中の、「国生み神話のイザナギ・イザナミの黄泉訪問の逸話」ではないかと思われます。
要約します。
イザナギ・イザナミの兄妹でもある夫婦神は結婚し、様々な神を生みます。
しかし火の神カグツチを生んでイザナミは陰部にやけどを負い、彼女はそれが元で死んで黄泉の国の住人となりました。
悲しんだ兄であり夫であるイザナギは、黄泉に出向いてイザナミを返すように説得し、条件付きでOKを貰います。
その条件とは、イザナミを連れて黄泉の国を完全に脱出するまで、決して彼女を振り返らずに帰る事。
しかしその条件を好奇心に負けて破ってしまった(振り返って彼女の顔を見てしまった)イザナギは、怒ったイザナミや黄泉の化物に追われることになりました。
やっとの思いでひとり黄泉の国から現世に戻ったイザナギは、黄泉と現世の境界である黄泉平坂(よもつひらさか)に千引の岩という巨石を置いて通路を塞ぎました。
この岩を「道反神(ちがえしがみ)」または「黄泉戸大神(よみどのおおかみ)」とした。
めちゃくちゃ雑に端折ってるので、ちゃんと知りたい場合はwikiでもどうぞ。
この岩神が、「塞ノ神」の原型であると言われています。
(正確には原型と言う表現にはならないのですが、今回は話をややこしくしないために一旦そのような表現にしています。)
そして「道祖神」とは本来は外来の神ですが、「塞ノ神」と後に結び付いたと言われています。
つまり、「道祖神」「塞ノ神」とは、あの世とこの世を結ぶ境目を、その身で塞いで守っている神様です。
そしてこの神は、「岐神」「塞ノ神」「船戸神」「衢神」「道俣神」「道反神」「石神」など様々に表現されていますが、このうちの「塞ノ神」に関しては一般的に丸い石で表され、祀られています。
※「塞ノ神」は大きな丸い石です。(後に重要)
これら黄泉の国の神話が記載された「古事記(こじき)」は711年に編纂が命じられ、712年に完成・献上しました。
「古事記」はあくまでも711年に編纂されたものなので、更に古いモデルが存在します。
これが「帝紀(ていき)」と「旧辞(きゅうじ)」であるといいます。
まず「帝紀(ていき)」は681年に編纂されたとされており、原書はありません。
これ以前は口伝であると考えられます。
つまり、実際の年代が追える限界が681年です。
次に「旧辞(きゅうじ)」ですが、元々「帝紀(ていき)」と一体であったという意見も存在します。
元々は口伝であったと考えられ、6世紀頃(西暦501年から西暦600年)に文書化されたと推定されています。
ここで判明するのは、少なくとも「塞ノ神」が神名として登場する可能性のある最古の文献(口伝)の年代は、6世紀(西暦501年から西暦600年)ごろであるということです。あくまでも可能性です。
そして貴族が和歌に詠んだのが西暦750年頃であり、その時代には「夕占」と言えば通じる程一般的だった、という事です。
「道祖神」の一部、及び「塞ノ神」は大きな丸石が一般的でした。
この様子は絵巻で残っており、「信貴山縁起絵巻」という12世紀(西暦1101年~西暦1200年)に描かれた国宝の絵巻に描かれています。
次に「道祖神」「塞ノ神」が、「性器の神体を持った道祖神」として登場する文献は、これより結構のちの時代の938年「本朝世紀」や806年以降「古語拾遺」です。
ここで、生殖器崇拝と塞ノ神が既に習合(異なる信仰が混ざり合う事)していることが確認できます。
上記の「本朝世紀」の中では貴族から「性器の神体はさすがに猥雑だわ~」という所感が述べられてちょっと引いてる感じがあるので、「万葉集」で西暦750年頃に大伴宿禰家持が和歌を詠んだ時点では、「道祖神」「塞ノ神」には少なくとも猥雑な印象は無かった可能性があります。
長々と何が言いたいかと言うと、
この万葉集の「辻占(夕占)」の神様は、純粋な「境界の神様」としての機能を持っている可能性がある
ということです。
近代の道祖神・塞ノ神は様々な習合の結果として「お地蔵さん」「性神」「火の神」「農耕神」など多くの性質を有しているのですが、この時代の辻占では、純粋な境界を守る神様としての面が強いのではないか?と言いたいのです。
なぜ「境界の神」にお伺いを立てるのか?
ではなぜ、境界の神である「塞ノ神」から神託を得ようとしたのでしょうか?
貴族は敷地内に氏神を持つこともあるし、特に京の都であれば、庶民参拝禁止の貴族専用の立派な神社もあります。
いくら交差点や橋に塞ノ神が祀られているからと言って、手軽という理由だけで塞ノ神を頼りにするでしょうか?
これらの神は民間信仰との結びつきが強く、貴族文化になじみは薄い(この時代では意義が逸失している)です。
古来、日本には「境界信仰」と言っても良いような思想があったと考えられます。
このような言葉があるわけではないのですが、人は「境界」を重視したと考えられるような習俗が多く存在しています。
「境界」と簡単に言ってしまうと、それは「敷地と敷地の区切りの部分」であったり、「人の内と外の狭間」であったり、「夢と現実の境界」であったりと、何かと何かを区分するそのことを「境界」と呼びます。
実際に塞ノ神と並びたち、後世で完全に習合していることも珍しくない「岐神」は塞ノ神よりも更に区画としての境界守護の意味が強い神です。
でも境界にはもう一つ、角度を変えた見方ができます。
それが「境地」です。
勘違いされやすい「境地に達する」という言葉があります。
Goo辞典なんかでは「ある段階に達した心の状態」と書かれていますが、これは「境地」に達したのであって「極地」に達したわけではありません。
言わば「悟りの境地」に達した状態というのは、「悟りの極地」に達したわけでは無いのです。
つまり、レベルアップのように階段を上がって悟りの境地に行くわけではないのです。
これを言葉で説明するのは非常に難しい。
人間の心が荒れる時というのは、大抵、何かと何かがぶつかっている時に、自我がそのどちらかに属している時です。
境地というのは、そのどちらにも属さない、極地と極地がぶつからないようにバランスのとれた状態を指します。
つまり、「中庸」という事です。
例えば先ほどの、イザナギとイザナミの黄泉の国訪問のお話を使ってみます。
塞ノ神は、怒り狂うイザナミと、逃げるイザナギの間を塞いで守っていますよね。
つまり塞ノ神は、この境界線でどちらにも属さずに、イザナミの自我(何故振り返ったのか!)と、イザナギの自我(愛する人の顔を早く見たかった!)の境目を塞いで、これ以上の争いを鎮めている訳です。
自我と自我のぶつかる様を、二元論・競争原理と言ったり、仏教では修羅と言います。
ですから、そのどちらにも属さずに物事を俯瞰して見る精神の事を「無我の境地」と言うのです。
我欲を押さえて人と人が争わず競わない状態が「境地」なので、だから塞ノ神は「丸い」形をしているのだと思います。
ちなみにこの、イザナギとイザナミを分けた「塞ノ神」は、「千引の岩(ちびきのいわ)」と呼ばれると書きましたね。
別の考え方をすれば、この岩の存在こそが男女・陰陽を分断し、終わらない争いを生んだという考え方も出来ると思いますけどね…。
話がずれた。
ちなみに、このイザナギ・イザナミ神話で、そもそもイザナミが死んでしまった理由は、火の神カグツチを生んで女陰を火傷した怪我がもとで亡くなったといいます。
この時激昂したイザナギは、子であるカグツチを斬り殺します。
「火」は元来大変恐れられました。
なぜなら、使い方を間違えれば人間に大きな破滅を及ぼす「自然現象」の一つであったからです。
歴史的に見て「神」の発生は、利益を与える福神よりも、荒ぶる神を祀ってご機嫌を伺う「荒神(あらがみ・こうじん)」のほうが早いとされています。
「火」というのは、神々の中でも特にわかりやすい「荒神」です。
この火に関係する神様の件は今回は省略して、この恐ろしい「火」を、人間の制御できる状態に管理したものが「竈(かまど)」でした。
昔、ご飯を炊いたりしてたものです。
そして、飯島吉晴氏の著書「一つ目小僧と瓢箪」の中で、繰り返し「竈が異界と現世をつなぐものである」という事が語られています。
これは日本だけに限った事ではなく、ドイツを始め、外国にも存在する考え方です。
つまり「辻占」の根源的な考え方というのは
現世と黄泉の境地を見通す塞ノ神から、呪術的に異界の力を借りて神託を得ようとしている占術
であるという事が考えられるのではないかな?
この構図は西欧で、竈の炎で卜術をする行為によく似ています。
外見的にあまりにも違うので一見全く接点の無い占術に思えるかもしれませんが、根本の意味は非常に似ていると思います。
同じ「辻占」でも秘めた原理は全く違う
という訳で、元々の「辻占」はどちらかというと、占術というより呪術よりなのかもしれませんね。
でもちょっと、粋というか風情があると思うんですよ。
黄昏時に、柘植の櫛の歯を鳴らしながら(とても綺麗な音がすると思う)、道行く人の声に耳を澄ます。
すごく素敵だと思う。
櫛というのは呪術的に「物事を整理する」という意味があるそうです。
辻占の発生時にその概念が既にあって、櫛をもつようになったのかどうかは定かではありませんが、“櫛を鳴らす”というのは“物事の整理を成らす(鳴らす)”という意味ではないか、なんて思いますが、どうだろう?
古き日本は言霊を信じ、言葉ひとつひとつに意味を持たせていました。
何気なく私たちが日常使っているような言葉にも意味が込められています。
櫛を鳴らすという形態は後の時代に歌になり、文字になり、おみくじを包む煎餅に変化しますが、その“櫛を鳴らす”事の本質は今も消えたわけではなさそうです。
ただ「辻占」は「卜術」の一種ですので、“その日その時その瞬間の必然”である分には変わりありません。
形は跡形も無く変わってしまっても、術式の本質は今も失われておらず、また変わってゆくことそのものが「風習」です。
例えばこれから数百年後、更に辻占はもっと新しい形に変化しているかもしれません。
でもあえて時代に逆行して、夕方の交差点に立って、耳を澄ましてみるのもいいかもしれません。
今、柘植の櫛、わりと高価だった気がするけど。
辻占の起源とは?さらなる追求…
更にマニアックな話。
ということで、ここからは更に上記で追った最古の「年代が判明する記録」とは別の記録を見て見ましょう。
つまり、年代不明ですが更に遡ってみます。
斎藤昌三氏1921年の「性的神の三千年」でサラッと流すように書かれていることがあります。
室町時代の辞典にあたる「壒嚢鈔(あいのうしょう)」にて、道祖神の関係する占いの事が書かれているそうです。
文体が古く難しいので、意訳します。
「塞ノ神は道路を塞ぐ丸石の神であるが、実際には邪神悪鬼の来襲を防ぐための神として崇拝されたものだろう。後には石卜(いしうら)として、石を持ち上げてその重量によって吉凶を占った。転じて心願を祈り占うようになったようだ。」
このような記述があります。
後者は恐らく、辻占のことを言ってます。
これは室町時代成立の辞書ですから、平安時代よりも約600年後の話です。
この時点で「道祖神に心願を占う」ものは、辻占であると思います。
ただし、辻占には派生(夕卜など)もありますが、これら全てを辻占と括っての話です。
で、この前身として
「後には石卜(いしうら)として、石を持ち上げてその重量によって吉凶を占った。」
というのですよ。
これは、万葉集(7世紀後半から8世紀後半)の形式よりも更に古いです。
何故なら、万葉集時点で道祖神にお伺いを立てる方法の大半は、既に心願を祈るタイプのものだからです。
しかし、この出典「壒嚢鈔(あいのうしょう)」が成立した1400年代よりも6~700年以上昔の話…という事にはなるので、真偽は確認し辛いです。
なのでちょっと角度を変えましょう。
「万葉集」第3巻420番歌(丹生王)の一部を抜粋して見てみましょう。
「夕占問ひ 石卜(いしうら)もちて わが宿に みもろを立てて」
夕占は辻占です。
その辻占をするために、石卜を行うんですよ。
この解釈、「夕占や石卜」として別々の占いとして翻訳する方もいらっしゃいますが、これは「夕占のために石卜を使う」という意味ではないですか?
だってこれ翻訳してる人、辻占について詳しく知ってる人なんですか?
まずそこが疑問なので、ちょっと疑ってます。
つまりこの時代、辻占には「(古)石卜版」「(新)心願版」のパターンがあったのでは?
流行や作法・文化が移行するときには、前のやり方と新しいやり方は必ず混在します。
しかも通信技術の整った現代ではないですから、この流れは現代人が想像するよりもずっとゆるやかであると考えます。
双方が混在していたと考えても良いのでは?
このため平安時代後期成立の「金葉和歌集」には、
「あふことは問う石神のつれなさにわが心のみうごきぬるかな」
という歌があるのでは?
この歌の石神とは、まず塞ノ神(道祖神)のことです。
ですから、塞ノ神に辻占で問うんだ、と言ってます。
方法は書かれていませんが、石神と称しています。
ということは、その廃れ具合は不明ですが、万葉集に出るほどには一応「石卜」の方法も当時残存していたことになります。
「石卜」は古代の占いと言いますが、卜術としての単純性と、石神信仰の原始性から、古い時代のものであると誰もが推察するのは当然だと思います。
ちなみに、「道祖神」は現在、塞ノ神はじめ「岐神」「猿田彦」など様々に習合し、性・火・豊穣・子宝・境界などデパート並みの色々な神威を持っていますが、この大きな習合自体が平安時代以降と言われています。
つまり万葉集の時代より更に昔は「道祖神」「岐神」「猿田彦神」「性神」全部別々だったと考えます。
事実、道祖神は奈良時代以前は「ふなどのかみ=岐神」と呼ばれていたようです。(喜田貞吉氏曰く)
そこには「道祖神」「猿田彦神」の名はありません。
なぜなら「道祖神」がそもそも中国に起源を持つ外来神だからです。
辻占の前身は石卜ですから、石卜自体はかなり古いです。
「道祖」「岐神」「猿田彦」は平安時代以降に習合した説を一旦採用しても、当時の時代背景から考えても不自然ではないと思います。
ここを今掘り下げると話が広がるばかりなので端折ります。
すると残るのが原始信仰です。
民間で様々に信仰されていた性神、田畑神、水神、火神など様々ですが、これらは大部分が平安時代に“後年認識できない形になった”と言われています。
これは、「秦氏とは何者なのか?」という記事にも関係しています。
秦氏をはじめとした有力者による神社の整備により、平安前後で“民間宗教が整備された”からです。
この対象は「荒神(こうじん・あらがみ)」と呼ばれている、原始的信仰の形をとるものが多いです。
さて、最も原始的な信仰と言われるのは、「性神」や「岩石信仰」「日月(太陽・月)神」「祖霊」「火炎信仰」などです。
この中で、塞ノ神の類型である「岐神(くなどのかみ)」は、封建制度以降の神であると言われていますので、原始宗教ではありません。
実際、「岐神(くなどのかみ)」はその名の由来も、何らかの領地・領土を守るという、原始信仰ではあり得ない意味を持ちます。
日本の封建制度が最も早いとされる説で、奈良時代です。
ここで重要なのは、実際に制度としての封建制が確立しているかではなく、社会事実としてどうであったか、です。
封建制の定義は、領土分割の書面の発見があったかなかったかが大きいです。
なのでこの場合、意義はまぁまぁ無視しましょう。
すると租庸調のあった飛鳥時代にはこの概念が“実際にはあった”と考えてもいいと思います。
この理由は、飛鳥時代に存在した「奴婢(ぬひ)」という身分です。
奴婢は人間でありながら領地や家畜・奴隷などのような主人の財産であり、これを規定する数々の法令が存在しました。
であれば、飛鳥時代には「岐神」があってもおかしくはないんじゃないかな?
岐神と塞神はそれぞれ男性・女性で表現されたと言われていますが、岐神に関しては飛鳥頃に現在の「岐神」という神名・立場を得た可能性があります。
ただし単純な石神信仰起源と考えるなら「岐神」よりも「塞ノ神」のほうが、恐らくもっと古いです。
日本の場合、古代は母神信仰に遡ることが多いからです。
結局、証拠の無い時代のことを推察しているだけですから全部私の妄想だと思ってもらっても問題ないです。
実際、後年の辻占としての石卜が、岐神発祥か原始信仰発祥か私にはわからないです。
とある興味深い資料を発見
上の方で、このように書きました。
辻占には「(古)石卜版」「(新)心願版」のパターンがあったのでは?、と。
これは、無根拠な推察ではなく一応資料が存在します。
辻占の研究でも道祖新研究でもその後一切触れられていないので、捕捉くらいで書きましょう。
大正15年に発行された、澤田五倍子「無花果」からの情報です。
生殖器崇拝関係の書籍では、初期にかなり珍重されたものである印象を受けます。
この中の記述に、中国で毎月8日と1月15日に行われた「聴香」という儀式について書かれています。
現在でも地域によって行われているのかどうかはわかりませんが、どうやら大正時代当時にはまだあったようです。
この「聴香」は、次のような儀式です。
意中の男性のいる若い女が、この夜には線香の煙を長く引き、人目につかないように、街の角や石垣の上にその線香を立てる。
そして耳をすませて、そこに漏れ聞こえる話し声に耳をそばだてる。
その時聞こえた話の内容で、恋愛の吉凶を判断する。
この内容は「聴香」の一部ですが、恋占いの部分の内容が「辻占」にとてもよく似ています。
これは月光による妊娠習俗の一例として紹介されていたものなので、これ以上の詳細は不明ですが、この習俗が日本に伝わって岐神などと習合した可能性があるんじゃないかと思います。
憶測です。
参考文献
「辻占の文化史」中町泰子
「性風土記」藤林貞雄
「生贄と人柱の民俗学」礫川全次
「なぜ日本人は賽銭を投げるのか」新谷尚紀
「一つ目小僧と瓢箪」飯島吉晴
「性的神の三千年」斉藤昌三
「無花果」澤田五倍子