お稲荷様はどこから来たの?謎のルーツ
この記事の漫画部分には多少のBL要素(ギャグ程度)があります。
生理的に無理な方にはオススメしません。
そもそも、お稲荷様信仰って何?という記事はこちらからどうぞ。
※キャラクターの紹介はこちらからどうぞ。
日本人なら一度は何らかの形で関わる「お稲荷様(おいなりさま)」。
起源には諸説があり、色々な方が数々の説を提唱されています。
それは、それだけ現代でも愛され敬われ、関心を持たれているという事では無いかと思います。
でも、「どうしてこんなに身近なのか?」という点や、稲荷信仰に深く関わっている陰陽五行思想について、いくつかの要素を紹介していきます。
また、今回紹介するのは数ある中のひとつの説です。
愛され研究されている分いろんな説がありますので、この記事だけではなく他の色んな説に触れて頂くキッカケにして頂ければと思います。
伏見稲荷は古代の渡来系豪族・秦氏の氏神?
一般的に言われているのは、
”大昔(古墳時代)に海を渡って日本にやって来た「秦氏(はたうじ)」という一族が、氏神として祀っていたのが稲荷神であった”
という説です。
少しでも検索すればゴロゴロ出てきます。
※氏神(うじがみ)とは、一族・家・個人のような小さな単位で祀っている神様のことです。
秦氏(はたうじ)は「日本書紀(にほんしょき)」「古事記(こじき)」という古代の歴史書の記録では、朝鮮半島を経て4~5世紀頃(西暦400~500年頃)に日本にやってきたと書かれています。(3世紀という説もあり)
これは長い間少しずつ断続的に渡ってきたようで、いつ頃来た!と明確に言えるわけではなさそうです。
そもそもこの秦氏(はたうじ)、朝鮮半島から日本へ渡って来たようですが、そもそもそれ以前どこから来たのかというと、かなり議論を呼んでいます。
紀元前206年(秦氏が渡来する600年前)に滅亡した古代中国の「秦(しん)」の王族の末裔であると名乗っていたという記録がありますが、この真偽は不明です。
朝鮮半島から渡った人々であったという説から、イスラエルの失われた10支族の末裔(日ユ同祖論=日本人とユダヤ人は同じ祖先だよという説)であるという説まで本当に様々です。
このため、稲荷信仰はイスラエルのレヴィアタン(リヴァイアサン)が形を変えて渡来したと主張する説もあるし、中国国内で起こっていた土徳信仰(土=豊穣のシンボル)が渡来したという考え方もあるし、日本に渡って来た後に秦氏が祀り始めたのだと主張する意見もあります。
こういう状態をどう言うのかと言えば、
「結局わからない」
のです。
ただ確かな事は、秦氏(はたうじ)が伏見稲荷大社の建造に関わり、そこには稲荷神を祀っている、ということです。
そもそも本当に秦氏の氏神様なの?稲荷神って何者??
そもそも通説のように広まっている
「稲荷神は、外国から来た秦氏が一緒に連れてきた氏神だよ!」説
ですが、これに異を唱えるような説もあります。
私が好きな説なので紹介します。
そもそも秦氏が関わった神社は別に伏見稲荷だけではありません。
月読神社、蚕の社、加茂神社、松尾大社…と結構色々な神社建設に関わっています。
このうち松尾神社・加茂神社の御祭神のルーツは別の渡来系豪族にあり、秦氏とこの豪族(鴨氏)は婚姻・協力によって良好な関係を築いていたようです。
基本的に秦氏は日本にやってくるにあたり、自分たちの祖先神・祖霊を推すのではなく、従来より地元で先に大切にされてきた土着信仰を優先させ、尊重することで溶け込むという戦略を取ったようです。
このため秦氏(はたうじ)の氏神は稲荷神ではなく、「園韓神(そのからかみ)」ではないかと言われています。
「園韓神(そのからかみ)」が最初に歴史上の記録に登場するのは延暦20年(西暦801年)「儀式」という書物です。
この頃、既に京都付近は秦氏(はたうじ)の勢力下にありました。
この説を取るのであれば、稲荷神はあくまでも伏見の地域に古くからあった土着信仰(豊穣神・山岳信仰)であって、地域のみんなが元々愛している神様の神社の建設に、溶け込みたい秦氏が力を貸しただけ、ということになります。
つまり、稲荷神の起源は大陸ではなく日本国内の土着信仰という線が浮かびます。
そもそも伏見稲荷大社=狐信仰ではない
天暦3年(西暦949年)の書物「神祇官勘文(じんぎかんかんもん)」の中に、
「この神社が建てられた事情に関しては文献がありません。でも伏見稲荷大社は、西暦708~715年(奈良時代)に始めて建造されました。」
という旨(要約)の記述があります。
元々の主祭神に関する記録はありません。
主祭神が現在のウカノミタマになっている記録は、中世以降の話です。
ちなみに、この時点まで伏見稲荷は「キツネ」に全く絡んでません。
ただ、伏見稲荷の建設前の西暦600年頃には、現在の中国である「唐(とう)」の農村で、狐信仰がちょっとしたブームになっているという記録ならあるようです。
(ただし狐は稲荷神の使いではなく、后土という土の神様の使い)
そして西暦710年頃、伏見稲荷では陰陽五行(おんみょうごぎょう)に基づいて、水害への祈願として土の気を持つとされる狐神鎮祭が行われた、と吉野裕子氏の「狐 陰陽五行と稲荷信仰」では考察されています。
これは、土には水を尅する力があると信じられていたからです。
実際「続日本紀」には、和銅5年(西暦712年)に京の都で「水害を押さえる力を持った“黒狐”が伊賀の国で出たよ~!」とめちゃくちゃ喜んで、犯罪者の恩赦まで行われたような記述もあるようです。
つまり、この頃に稲荷神と狐の眷属という構図ができていたかはわからないけど、狐に対する土徳の概念は既に存在していたことになります。
さて、ここまでの話を見やすいように、年代順に並べてみましょう。
ちょっと難しい話かもしれません。
- 紀元前700年頃 イスラエルの失われた10支族
- 紀元前770年~221年(もしくは紀元前 1000年迄)陰陽五行思想が古代中国で誕生
- 西暦300~500年頃 秦氏が日本に来始めた
- 西暦600年頃 唐の農村で狐信仰が大流行!(事狐)
- 西暦708~715年頃 秦氏により伏見稲荷が作られる
- 西暦710年頃 狐神鎮祭が伏見稲荷で行われる
- 西暦712年頃 京で黒狐が話題に!(白狐ブームはその後の話)
こんな感じで残っている記録を見ると、中国の山村で狐を祀る事がブームになっているのは西暦600年頃で、秦氏が渡来した後の話です。
が、日本で明確に狐が登場するのは西暦708~715年に伏見稲荷が出来てから。
しかも狐自体の信仰というよりは、陰陽五行上の土の気を持つ身近な動物としての役目です。
ただ、それよりもずっと以前に「稲作の神」という性質の土着民間信仰である「狐信仰」「狐塚信仰」は存在していたと思われますので、これが後々伏見稲荷の主祭神(これはウカノミタマであり、食の神)と融合したのではないでしょうか。
蛇足ですが、ここは大変ややこしい話なんですよね…。
別に統一的な物でもなく、稲と田では神様が違ってきますが、これは後に記事にする「生贄の話」にも繋がる複雑な話です。
なぜ”稲荷(いなり=稲がなる)神”は蛇(水神)ではなく狐(土神)だったのか?なぜ全国の稲作の豊穣の儀式に女性を生贄にする習俗の片鱗(ウカノミタマを模しているようでもある)があるのか?なのになぜ生贄に繋がる神は蛇であることが多いのか?しかも蛇神には女性を生贄に差し出す習俗が多いよね?
神様や信仰は”習合(異なる信仰が混ざり合う事)”という事が歴史上で頻繁に発生し、決してひとつの決まったルーツを求められるような簡単なものではないのです。
現在の稲荷信仰にはこの平安時代頃に加えて、仏教やビジネス上の関係まであります。
私達が想像する以上に、古代日本人の陰陽五行思想への信望は熱かったので(もちろん中国でも)、西暦600年頃に中国国内で起きた狐ブームが次第に日本に流入し、同じような性質を持つ稲荷信仰と結びついたと考えても良さそうです。
実際これだと年代的にはおかしくはないです。
複数の要素と人と生活が結びついた歴史上の出来事の理由を、一元的に求める事自体が間違いであるとも思います。
これ言ったらどうしようもなくなっちゃうけど。
尚、伏見稲荷の主祭神は最初「狐じゃなくて元々は蛇だったんじゃないか?」説もあります。
上の蛇足に書いてますが、多分ある程度民俗学を知ると、ここに行きつくのだと思います。
話が終わらないのでそれはまた今度。
古代中国から来た「陰陽五行説」と狐信仰と狼信仰
先程から度々登場する「陰陽五行説(おんみょうごぎょうせつ)」。
陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)の陰陽です。
今でもカレンダーによっては「辛酉」とか「庚申」とか書かれてますよね?
あと、十二支(じゅうにし)、みなさんありますよね。辰年とか巳年とか。
あれも陰陽五行思想のひとつです。
今ではその程度の認識ですが、古来日本では非常に重要な考え方でした。
つい150年ほど前の幕末期まで、江戸幕府は元号の決め方にはこの陰陽五行説を利用していたレベルです。
150年前だとね、あなたのご先祖さんの戸籍謄本が市役所で取れる時代なんですよ。
「陰陽五行(おんみょうごぎょう)」と言うのは超簡単に言うと、
宇宙のすべてのものを大カテゴリ2区分、中カテゴリ5区分の属性に切り分ける考え方です。
すっごく簡単に端折ってカジュアルに説明します。
特に基本となり基準となるのは、まずは「陰陽(おんみょう)」の部分。
これは、あらゆるものを「陰」と「陽」に分ける考え方です。
「天が陽」で「大地が陰」です。
RPGで例えると、光属性と闇属性のような感じで思って下さい。
ただし、陰陽は完全に二分割して切り分ける考え方ではありません。
陰は陽を、陽は陰を、必ず一定数含有しているという考え方です。
それぞれが100%になることは決してありません。
次に「木・火・土・金・水」という、5つの要素に区分されます。
昔の人々は、豊穣を司る「土」を何よりも大切に考えていました。
そして「木・火・土・金・水」にはそれぞれ「青・赤・黄・白・黒」というシンボルカラーが存在しています。
RPGの魔法と同じで、これらには相互に5すくみの関係があります。
それがこの関係です。
※この区分は書籍やネットの情報でも内容が微妙に違っています。ですから上の図は一例であると思ってください。
キツネは体色が黄色なので、キツネという動物は「土の力を持った陰の動物」ということになります。
この考え方は古代中国の「宣室志(せんしつし)」に垣間見えるようです。
この思想に則って、狐を「狐神」として祀る事を古代中国では「事狐(じこ)」と言いました。
またニホンオオカミも体色が黄色なので、この五行思想が日本に渡った際には、同じ考え方がオオカミ(ヤマイヌ)にも向かったという意見も存在します。
誤解があると思うので余計でもこれだけは追記しておきますが、「陰」が一番暗くて「陽」が一番明るいわけではありません。
陰陽五行説基本の考え方ですが、陰陽五行説では「物事の絶頂=衰退の始まり」です。
ですから「陰」って実は「もっとも明るい」時でもあるわけです。
これは四柱推命などの占術でもそうなので、読み違えないように注意が必要です。ほぼ全ての思想に関して根っこにこの考え方が存在しています。
日本特有の稲荷信仰とお犬様信仰
実は、日本以外の海外の民話ではキツネは悪者である場合が多いです。
それはオオカミもそうなんですが、オオカミの場合は牧畜文化圏では家畜を狙う圧倒的悪者なんで仕方が無いと思います。
ただ、キツネはオオカミほどの害獣扱いでは無いにしても、オオカミよりは頭脳プレイヤーの悪者という側面が大きいです。
最近読んだトルコの民話でも、最後はキツネ、猟師に撃たれてたし。
古代に「事狐」が流行った中国でも、基本的に民話の中のキツネはずる賢く色を好みます。
妲己(だっき)なんかが有名ですね。封神演義とかにも出るよね。
この傾向は古代より中国と密接な関わりのあった日本国内の民話にも見られますが、それでも恩返しや何かの事情があったり等、日本国内の民話は全体的にキツネに対する態度が柔和な傾向にあります。
これは人間に危害を加える恐れもあったオオカミにも同じ傾向があり、海外のオオカミに対する完全害獣扱いとは雲泥の差です。
特に古代日本の歴史書「日本書紀」では、オオカミはヤマトタケルを導くような存在でもあります。
この国内外での害獣に対する態度の違いには、日本の宗教観に見られる精神の志向性があると思いますが、この話はまた今度。
日本全国に無数に存在する稲荷神社。
結局あれこれと色んな説はありますが、これだと起源は断定できません。
残念ながら現存する”古書も嘘をついているかもしれない”からです。
しかし、細かい事は置いといて、現代の稲荷信仰は日本固有の信仰と言っていい存在です。
そんな稲荷神社に行く際は、我欲のお願い事をするのも結構ですが、古代には想像する事すらできなかったであろう「コンビニに入ったら3分で何かが食べられる」ような当たり前の“食の豊穣”を与えて頂いていることに感謝してみるのはいかがでしょうか。
参考文献
「ものと人間の文化史39 狐 陰陽五行と稲荷信仰」吉野裕子
「謎の渡来人 秦氏」水谷千秋
「タブーに挑む民俗学 中山太郎土俗学エッセイ集成」中山太郎(著),礫川全次(編)
「憑物呪法全書」豊嶋泰國
あと、小豆と日本人?だっけ…そういう感じの、(株)御座候の方のネット論文を拝見してるんですけど、所在がわからなくなってしまいました…。