試し読み版
「人身御供ってなぁに?」
2025年1月19日発行
A5サイズ 138P
当ページは、「人身御供ってなぁに?」の試し読みページです。
内容は文章・漫画・コラムで構成されていますが、画像と注釈は非掲載です。
元々は本用の原稿ですので、少し読みにくい部分があるかもしれません。
試読範囲は、冒頭42ページ付近までの部分です。後半は放送禁止用語連発なので…。
本書では、現代の価値観では不適切・差別的と捉えられる表現、また性的・残酷な表現を含んでいます。
これらは歴史的資料として極力そのままの形で掲載致しますので、ご理解頂けますようお願いいたします。尚、それらを了承頂けない方に、本書はお勧め致しかねます。
はじめに
「人身御供(ひとみごくう)」は民俗学の中でもマイナーな分野であるとされています。
人身御供(ひとみごくう)、人柱(ひとばしら)、供犠(くぎ)、犠牲、生贄(いけにえ)などの習俗は、理由はいくつか存在しますが、決して研究が盛んな分野であるとはいえません。近年で最も有名と思われる研究書籍、六車由美「神、人を喰う」(二〇〇三年)でも明瞭な結論は導かれておらず、六車氏も著作の中で人身御供があまり扱われない研究テーマであることを言及されています。
とはいえ礫(こいし)川(かわ)全次氏は自著の冒頭で、この暗いテーマが一部の人間の性癖をくすぐり、それが先達を研究に駆り立てたという側面について、少しだけ触れておられます。私自身もそうです。私は前著にて、生殖器崇拝についていくつかの側面から解説を試みました。そのスタートは「性」というテーマが好き、という単純な好奇心です。また同時に「死」という仄暗いテーマにも同様の好奇心を持っています。
性は生を産み、生は必ず死を産み、輪廻のように繰り返される。それらは紛れもなく森羅万象に属する自然の摂理です。人間が生物である限りこれは繰り返され、半永久的に続くサイクルであり、原始信仰や多くの教義信仰の根底に宿る普遍的思想です。多くの信仰、特に自然宗教(アミニズム)のスタートに生殖器崇拝が存在しているように、多くの信仰には「死」も関連しています。この「死」の信仰は、時に大変残虐な形で人々に「死」を要求します。
日本国内の人身御供をはじめとする犠牲に関する民俗の研究は、多くはありません。「性」に関する民俗の研究と少々似た経緯で、排斥という程ではないにせよ、少々主軸から遠い場所に置き去りにされています。
今回はそんな、人身御供をはじめとする死と犠牲に纏わる信仰について、出来る範囲で紹介と考察をしようかと思います。最後までお付き合い頂けると嬉しく思います。
それぞれの言葉が持つ意味
人身御供(ひとみごくう)には、様々な類義語があります。
人身御供(ひとみごくう)、人柱(ひとばしら)、供犠(くぎ)、犠牲(ぎせい)、生贄(いけにえ)、他に類するものとしては、動物供犠(どうぶつくぎ)(殺(さつ)馬(ば)・殺(さつ)牛(ぎゅう)・殺魚(さつぎょ)など)や殉葬(じゅんそう)など、多くの言葉・行為が存在しています。これらはその類似性からひとくくりに「犠牲」「生贄」とされることもありますが、本来はそれぞれが明確に区別される言葉・行為です。辞書を引くとそれぞれに微妙または大幅に異なる意味が記されていますし、民俗辞典などにはもう少し明確な区分がされています。共通点としては、概ねその殆どが何らかの形で神や権力者に捧げられる供物であるということでしょう。供物の内容は人間の魂や命、血液や人体の一部や全部、もしくは動物の一部や全部、お金、作物など多岐に渡りますが、上位の存在である何者かに対し、見返りを期待して捧げるものであるという点においてはかわりません。
これらは、海外において明確に人間の命を捧げている、捧げていた記録が残る地域があります。近年まで実際に捧げていた地域もあります。日本とそれ以外と線引きをした場合では、海外では明確にその存在が証明されています。
では日本国内ではどうでしょうか。これは公式には「わからない」のです。実際に記録に存在するものは「殺馬・殺牛」などの動物供犠であり、事実として人間の命や人体を捧げたのかは不明なのですが、限りなく疑わしいものは存在する。そして伝承自体は非常に多く、全国各地に伝わっています。後ほど項目を割きますが、とある建造物中から人柱と思しき大量の人骨が発掘されるという実際の事件も存在しています。
信仰上の人柱ではありませんが、北海道の常(じょう)紋(もん)トンネルで、壁の中から多くの人骨が発見された事件は一九七〇年の出来事です。この建設は大正三年のこと。元々常(じょう)紋(もん)トンネルには、タコ部屋労働者が人柱にされているという都市伝説や噂話が存在しており、これが事実であったと証明されたのです。ちなみに私自身、平成の時代にタコ部屋ではないにせよ、かなり過酷な工事現場に関わったことがあります。そこでは皆が当たり前のように「朝に出勤したら階段とかで誰か倒れて死んでるかもしれんから、○○(私)ちゃんも驚かんと、救急車呼んでや。」と、私に教えてくれるのです。労働者の多くは、様々な事情で身寄りのない人たちでした。ちなみにこの現場では幸いにも死者は出ませんでしたので、責任者は「今回は運が良かった。」と喜んでいました。これは超大手企業の大規模プラント工事でしたが、ひ孫請けくらいまでになると平成中後期頃でもそんな状態です。常紋トンネル事件は遡って大正時代ですから、このような事件に繋がってしまうことは、正直ありえなくはないな…と思います。人間は、同じ人間の命に価値をつけます。ここに憐憫はあれ、時代を問わない普遍的な人間の価値観・法則として太古から存在した価値観でしょう。
人身御供や犠牲の習俗を深く知ろうとすることは、人が目を背けたくなるような歴史の汚泥をさらうに等しい行為です。民俗学最初期にこのテーマが顧みられなかったのは、少なからずこれらのようなことが関係しています。ではこれら人身御供や犠牲に関することを追求していく前に、基礎知識として、それぞれの言葉がどのような意味を持つのかを説明していこうと思います。
人身御供・生贄・犠牲とは
人身御供は「ひとみごくう」「ひとみごく」または「じんしんくぎ」「じんしんきょうぎ」と読み、人間そのものを神への供物として捧げることを指します。また比喩的には、集団の犠牲となる人・なった人を指します。どちらにしても犠牲者を指して使う言葉です。ただしこの言葉の意味の中には、必ずしも命を捧げることは含まれてはいません。この語は「人間を神に差し出す」という習俗に対して用いられ、動物を捧げる場合は「人身」ではありませんので「動物供犠」になります。
人身御供の習俗は、概ね原始信仰・自然宗教と密接な関わりがあり、全世界に広く存在しています。近代においてもそれら原始信仰・自然宗教が残る地域(原始的生活地域)では現存している場合もあります。この理由は、神に対し最上級の捧げものをするという発想にあります。この場合の最上級の捧げものは「血肉」や「命」として人身御供を用いる場合もあるのですが、もっと重い意味としては「魂」を捧げるという意義においておこなう場合もあります。そのような場合の人身御供では「人身」ではなくもっと重要な「魂」を捧げるので、人身御供に捧げられた人間は、死後もその魂が解放されることは無いという、信仰上最も重い拘束状態となります。
この人身御供について、先ほど「ひとみごくう」の他に「じんしんくぎ」「じんしんきょうぎ」と読む場合もあると書きましたが、これは広辞苑によるもので、その初出は不明です。古くは「ひとみごく」と読むものでした。実際、古い時代の書籍には「ひとみごく」とルビが振られています。
雑誌『大和志』第四巻第四号(一九三七年)誌上において、関西大学文学博士・田村吉永による「人身御供とシトミゴク」という記事が掲載されています。これはほんの小さな記事ですが『大和志』は大和国史会発行の雑誌で、田村氏はこの創設者です。ここに書かれているのは、現在の奈良県宇陀市菟田野(うたの)平井にある神社で「人身御供」と伝わる祭礼の様子とその由来の話です。何という名の神社であるのか書かれていませんが、おそらく八王子神社であると思われます。この地には他にも神社が存在しますが、人身御供にまつわる祭礼が存在するのは八王子神社だけであると思われるからです。では、記事にはどのようなことが書かれているのでしょうか。
(旧字体・古い日本語を含むため意訳します。)
現在の奈良県宇陀市菟田野平井にある神社に人身御供の遺風を残す祭典があるのを聞いた私は、今年の春の祭典の際に現地で「人身御供」と呼ばれる御供物の話を聞きました。それによると、白い米粉を固め、その粉をまぶしたものを、人体のうずくまった形に成形したものだと言います。ところがこれは人身御供の遺風でも何でもなく、しかし大変面白い話が付随することがわかった。
昔は米の粉をシトミ(粢)と称してこれを食べる風習があり、もちろんそれを神に供えることもしたという。その後時代とともに餅や団子に置き換わり、シトミを供えることはなくなった。しかし平井の神社では、昔のそのままの形式と言葉を保存しているのが、とても面白い。
この「シトミゴク」を地方によっては白餅とも言っている。(現在の)宇陀市奈良県宇陀郡御杖村(みつえむら)大字神末では、土地の山神に米をすり鉢で擂って作った米粉餅を木の葉に盛ってお供えするという。白餅は(三重県の)伊賀付近から東にかけての呼称だ。
田村氏は「人身御供」とは人の身を捧げる供物ではなく、シトミという米粉餅の供物(シトギともいう)を捧げるという意味だといっています。この報告は結構面白いもので、最後に登場する三重県伊賀市は民俗学者の中山太郎が田の中心で田植え女を殺す習俗について挙げている地域と同じです。宇陀市は奈良県ですが、伊賀地方とは合併の話が持ち上がる程に密接な関係にある名張市と隣接しており、地理的にはほぼ同じ地方といっていいでしょう。伊賀と名張は郷土史もひとまとめにされています。
この真偽はともかくとして「人身御供」関連の祭祀は日本の場合、餅や団子を人に模して供えます。どこの神社や由緒・祈祷・雨乞い等でも、人形(ひとがた)でなくとも餅や団子をお供えしており、この他には動物の命が捧げられることがあります。動物供犠は近代に明確な記録もあり、実際に存在します。しかし「かつて本当に人命をお供えしていました」という明確な記録はほぼ残っていません。後述しますが、人身御供伝説は各地に残っていますが、この実在は不明なのです。しかし伝説を根拠にして人身御供は実際にあったと主張される場合もあります。結局わからないのです。
では「生贄」とはなんでしょうか。イケニエは「生贄」と書き、「贄」はニエと読み、これは神や現人神(あらひとがみ)(朝廷など)への捧げものを指します。主に古くは水産物に対して用いられました。ここに「生」がくっついていますので、「生贄」は生きたまま神に捧げる命ある供物を指します。よく神社の生簀(いけす)で鯉などが放されていますが、それは神社の祭神への生贄である、という話はここから来ています。これは人身御供や犠牲と混同されやすいのですが、実は民俗学においてはその意味が異なります。
これを最もわかりやすく解説しているのが平凡社「世界大百科事典」第一巻(一九三一年)の生贄の項目です。筆者の守田有秋は不敬罪で投獄されたり出版物が発禁処分を受けたりという経歴のライターですが、この生贄の項目に関しては礫(こいし)川(かわ)全次が「生贄と人柱の民俗学」(一九九八年)中において、「かなりの学識の持ち主であることは間違いない(民俗学者が使用したペンネームか?)。御存知の方の御教示を乞う。」とまで述べています。この生贄の項目の内容は極めて詳細で専門的で、強行軍で発行した百科事典とは思えない内容です。なお、礫川氏は「大百科事典」としていますが、正しくは前述の「世界大百科事典」です。では、ここで生贄はどのように解説されているのでしょうか。
生贄の本来の意味は「生物を生きたまま神の贄として奉ること」です。ですから、殺してしまった時点でそれは生贄ではなく犠牲です。生贄というのは生きたまま奉納している状態を指します。犠牲とはスケープ・ゴートですので、結果的に殺すのであればそれは生贄ではなく犠牲です。生贄の場合は生かしていること自体に意味があります。これを守田氏は、「延喜式(えんぎしき)」(注1)にて祈年祭(きねんさい)で献じる白イノシシ・白雉を例として挙げています。
もう少し変化球の例を挙げてみましょう。例えばファンタジーの世界でよくある、邪神に奉げられる生娘。邪神が生娘を犯して喰らうのであれば人身御供であり、犠牲です。妻にするなら生贄です。しかしこの場合の生贄には犠牲の要素も含まれていますね。集団から捧げられた生娘は、彼等の為に犠牲になっています。最近よくある漫画や小説の、自ら望んでイケメン邪神の妻になり、悠々自適のプリンセス生活を送らせてもらって特に何不自由ないヒロインの場合、これは生贄ですが犠牲かどうかは怪しい。
ここからわかるとおり、犠牲とは人身御供や生贄よりも広義の語句になります。フランスの文芸評論家ルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」(一九八四年)で、犠牲について「共同体の力によって、一人を血祭りにする。」ことであると述べています。理由や発祥、原因はどうあれ、習俗においての犠牲も概ね同様のものです。日本の哲学者・今村仁司も自著内(注2)にてほぼ同様のことを繰り返し述べています。
ですから人身御供も生贄も、これから解説していく人柱等であっても、それが犠牲である限り、そこには「共同体の力によって、一人を血祭りにする。」行為が必ず存在しています。むしろ人間という存在は時代や文化レベルに関係なく根源的にこの性質を持っているのです。
人柱とは
人身御供や生贄、犠牲と同列に扱われる言葉に「人柱」があります。この語も比喩的にはそれらと同様の用いられ方をします。つまり人柱を立てるという言葉は、組織などの集団の犠牲として扱われる人間を指すこともあるということです。ただし、民俗的には違った意味を持ちます。
「人柱」は「ヒトバシラ」と読み、「人柱に立つ」「人柱に立てる」と表現します。「なる」ではなく「立つ・立てる・立たされる」という表現になるのは、「柱」であるからです。これは堤防工事や築城、橋の建設工事の際に、その成功・完成・安寧を願って人間を土の中や水の中などに埋める(生き埋めにする)風習を指します。ですから人柱は、人身御供や生贄、犠牲に対してもう少し狭義の語句です。これには人間を生きたまま埋める場合もあれば、殺してから埋める場合もありますし、殺す方法は溺死から残忍なものまで様々で、埋める場所も橋梁(きょうりょう)工事、堤防工事、築城などの用途にもより様々です。また、人間ではなく動物(馬など)が埋められる・殺される場合もあります。
先程ご紹介した北海道の常(じょう)紋(もん)トンネルで一九七〇年に発見された人柱は、元々人柱として壁内に人間を埋め込んだというよりは、工事で死亡した人間の死体処理と人柱を兼ねる意味で埋め込んだものと思われます。もしくは死体処理のみを目的とし、人柱伝説としての噂は後から付随したものかもしれません。常紋トンネルの場合は埋められた遺体にひどい暴行のあとが見られるようですので、後者の線が濃厚かもしれません。
実は同様のことは昔から度々おこなわれていたと伝わります。橋梁(きょうりょう)工事、堤防工事、築城などの大規模工事では様々な理由で死者が出ることが珍しくありません。これを埋めて人柱にして一石二鳥、という考え方自体は古い社会では非常に合理的でもあり、工事を後腐れなく進めるためには理に適っているわけです。封建社会の話ですから、現代の倫理観で語ることではありません。
このような人柱に関する伝説は、日本全国に多く存在します。各地の城・堤防・橋には時折人柱に関する伝説が存在するのですが、その中にはあまりにも作中の共通点が多すぎるために、元々は何らかのひとつの出来事・伝説・教訓が発祥になっていると思われる逸話群が存在します。柳田国男などはそれを理由に、全ての人柱や人身御供伝説を実在とすべきではない、という旨のことを述べています。
類似の風習は日本以外にも存在しますが、日本にはこの「人柱伝説」が特に多く存在します。歴史上はじめての記録は最古の史記「日本書紀」に登場する、茨田堤(まんだのつつみ)のエピソードです。ここでは「人柱」という表現は用いられていませんが、内容はほぼ人柱のそれです。
(意訳)
「日本書紀」仁徳天皇十一年十条
冬の十月、宮の北の野原を掘って南の河を西の海に通し、北の河の泥をせき止めるために茨田堤(まんだのつつみ)(堤防)を建築しました。しかし、二か所ばかり工事が上手くいかない。このため、天皇は神託にてどのようにすればよいのかを占うことにしました。
するとその託宣の結果、武蔵人強頸(むさしのこわくび)と、河内人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二名を河伯(かわのかみ)(川の神)に捧げることになりました。これに従い、武蔵人強頸(むさしのこわくび)は泣き悲しみ水の中で死にました。しかし河内人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)は河の中に瓢箪(ひょうたん)を二つ投げ入れ、河伯に言いました。
「私の命が欲しいなら、この瓢箪(ひょうたん)を水中に沈めてみよ。出来るのであれば、あなたは本物の神なのだから、私の身を捧げよう。出来なければあなたは偽りの神だ。偽りの神に身を捧げはしない。」
すると瓢箪(ひょうたん)は沈まなかったのです。だから彼は身を捧げはせず、堤防も無事完成しました。
これは川の堤防の工事に人柱を捧げるという話です。天皇が神託を受けて人柱の要請をしているのですが、この時に「人柱」という語句自体は使われていません。人身御供とも言われておらず、この行為を指す単語は存在していません。「川の神が二人を欲しいといっている。」という表現に留まっています。当時「人柱」という言葉が既にあったのかどうかはこれだけでは不明ですが、上手く進まない堤防工事にあたって人命を捧げるという施工の工程・観念自体は存在しているように思えます。またこのエピソードでは川の神が、施工完了を盾に人命を要求しています。オチとしては、川の神は偽物だったようですが。
このあと歴史上に「人柱」表記が現れるのは鎌倉時代の「平家物語」になりますが、実は日本にはこれと形式は違いますが、似た「人身御供」的要素の見られる文献があります。これは日本の書物ではなく中国で記されたもので、「魏(ぎ)志(し)倭人伝(わじんでん)」(注3)です。ここには三世紀頃の日本の様子が書かれています。とはいえ「魏(ぎ)志(し)倭人伝(わじんでん)」に登場する人身御供のようなものは、人柱とは趣が少し異なります。この詳しい説明は本書の後半部分に譲ります。
ちなみに「日本書紀」のように、明確な言葉を持たないまでも明らかに人柱として伝わる伝承・記録などは、かなり古くから多数存在しています。実際あったとする現存記録の最古は西暦八一三年ですので、「日本書紀」よりも古くから思想自体は存在しています。しかし起源や発祥は不明といわざるを得ません。
布施千造「人柱に関する研究」一九〇二年の論文では、人柱の対象者は主に老人・行者・巫女であり、子供が犠牲になるパターンは少ないとしています。布施氏は同様に権力者・権力の中枢にいるものが犠牲に遭うこともまずないと述べていますが、これも必ずそうであるとは限りません。例えば先ほどの「日本書紀」の堤防の逸話では、豪族である茨田衫子(むらじころもこ)が一旦人柱に選ばれています。茨田衫子(むらじころもこ)は機転で難を逃れはしましたが、溺死させられた強頸(こわくび)も一般庶民ではないようです。(注4)
なお、人柱伝説は隣国である台湾にも似たものが存在しますが、ここで埋めるのは人間ではなく石灰とのこぎりです。この理由は全くの謎とされており、元々は人命であった可能性も否定は出来ませんが不明です。ただし、古代に人命であったものが、時代と共に代替品になるというのはよくあることです。そして台湾には人柱ではありませんが、人身御供の風習自体は存在します。
ちなみにどうして人「柱」なのでしょう。これは柱信仰と関連があると思われます。日本では神を「柱」という単位で数えます。日本神話では柱が重要な役割を果たしており、それは伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の「美斗能麻具波比(みとのまぐあい)」でも御柱を回ってまぐあう(性行為の古語)部分に表れています。
新井白石「東雅(とうが)」(一七一九年)では柱というものが、大地を基礎としそこに家屋を建てる際の雛形であり大本であるという柱信仰の源泉を説明しています。これは世界の雛形・基礎である世界樹でもあり、また同様の観念は古代中国の思想や韓国、西欧の古い信仰にも存在します。(注5)
つまり人柱というのは、人が信仰対象(神)として奉られる行為です。細かなニュアンスの違いはあるのですが、人柱を立てる目的とは、人柱に立てた人間や動物に対象物の守護を依頼する目的でおこなっているのです。築城・橋梁(きょうりょう)・堤防建設は普通の家を建設するような工事ではありません。特に人柱は川に関する工事に多く、これは特に人間が御することが困難な水・河川(蛇神など)を制御する工事であるからです。ですから工事が上手くいかないことは珍しくなく、工事難度が高い。この上手くいかない原因を荒神に求めることは、未文明化社会の発想としては実によくあることで、この場合は荒神に自分たちの重要なものを進呈して怒りをおさめます。重要なものの最上級は人命で、この発想は世界共通です。もしくは荒神に捧げるのではなく、対抗馬として人間を殺して神に転化させ、その新たな神に守護を依頼する。必ずというわけではありませんが、基本的な原理はこのようなものです。
しかし、この時捧げた人間が自分の意思で捧げられたわけではなく、強制的に人柱に立たされた場合はどうなのでしょうか。その場合も、結局奉れば良いのです。奉れば大丈夫なんて都合の良い話ですが、村単位の人柱伝説は概ねそのような感覚です。だから、自分たちの身内から人柱なんて探さなくても良いのです。その辺を歩いている旅人や見知らぬ者を捕らえて殺して奉じてしまえば良い。
…とはいうものの、殺した側の罪悪感が無いわけではありません。一部の人柱伝説では、毎夜人柱がすすり泣くのですから。
殉葬・殉死とは
更に血なまぐさい方面の解説になります。「殉葬」と書いて「ジュンソウ」と読む犠牲が存在します。日本ではあまり聞くことがないかもしれません。これは「殉死(じゅんし)」とも似た意味を持ちますし、実際に殉死と表現することもあります。殉葬は元々古代中国の犠牲の形であり言葉です。
殉葬・殉死とは王や権力者の死に際し、従者や侍女や馬などの家畜、時に妃や大量の兵士までも殺害、又は自害させて共に埋葬することを指します。特に中国やモンゴルが有名で、これは死後の世界が存在するという信仰のもとに成り立っている習俗です。ですがこの習俗は中国やアジア圏だけではなく、西欧にも存在します。
ジェームズ・ビー・スミレー一九一八年の論文「人身御供」では、次の内容が紹介されています。
古代ギリシアでは一夫多妻制が採用されていましたが、夫の死後には最も寵愛を受けた妻が殉死させられました。この殉死はたいへん名誉なものであり、この名誉を得るために、妻たちは競って自分が一番であると知人まで巻き込んでアピール合戦をしたようです。ここで選ばれた妻は、人々の賛美を受けながら亡き夫の墓の上で殺され、その隣に埋葬されます。そしてこの栄えある役目を果たせなかった妻は、劣った者であると見做されたのです。
よく、輪廻転生は仏教をはじめとするアジア圏の思想であるとされ、西欧にその思想はないという人もいますが、これは誤りです。キリスト教には輪廻転生の思想が無いというだけの話で、世界の多くの古代信仰には輪廻転生に似た思想が存在します。むしろ仏教はその思想を汲んで今に残してきともいわれ、特に出口米吉やエドマンド・バックレーなどの生殖器崇拝関係の研究者は、自身の論文においてそのように述べています。
仏教の伝わる中国をはじめとするアジア圏に死後世界の概念が存在することは説明するまでもないのかもしれませんが、西欧の原始信仰に関わる世界観にも死後世界が存在しています。そもそもギリシア・ローマ神話にもしっかり死後世界は存在し、冥界には王ハデスも君臨します。死後に世界がある時点で殉葬の必要性は説明できるのですが、死後世界の魂は地上に戻るのか?という点でいえば、戻る信仰が存在します。
冥府の王ハデスが死後世界を司ると書きましたが、この妻はデーメーテルの娘・ペルセフォネです。このペルセフォネは冥府の女王でありハデスの妃なのですが、本来の土着信仰で主となるのは女王であるペルセフォネとその母デーメーテルです。ハデスは存在していません。この二人は四季や暦、万物の輪廻を司り、冥府と現世を永遠に行き来する存在です。これは最古の自然信仰のひとつである生殖器崇拝と密接に関わる神ですが、そもそも生殖器崇拝自体が輪廻の象徴ですので「万物が永遠に循環する」ことを前提に考えるのであれば、死後世界に財産を持ち込もうとすることは、権力者には当然の発想なのかもしれません。
この死後世界の概念は多くの信仰で「地中深く」にあるとされます。ジェームズ・ビー・スミレーはこれら死後の世界が地下にあるという思想は、古代バビロニアには既にみられた考え方であると述べました。古代バビロニアでは死後世界が地下にあると考え、墓の土にストローのようなものを刺し、そこから飲食物を流し込んだといいます。これは現在のジャワでもおこなわれており、大昔の習俗をそのままの形で今に伝えています。似た風習はインドにも存在し、インドの場合はこれに加えて日用品なども入れるようです。これは地下世界=死後世界に日用品を届け、死後の生活を助けるためです。(注6)
しかし日本の場合は少々違います。日本は死後世界を「根の国」「常世(とこよ)の国」と表現しました。最も古い描写では「記紀」において火の神カグツチを出産した伊邪那美(いざなみ)が、出産時の火傷がもとでこの世を去ることに始まる逸話です。そのあと常世の国へ去ってしまうのですが、このときの常世の国の描写は「死後世界」として描かれています。この創世時代の常世の国は根の国で、根ですから地下にあり、それは死後世界でした。これが時代にしていつごろの話であるかは不明ですが、紀元前数百年以前であることは間違いないでしょう。しかし大化の改新頃の「常世の国」はこれとは明確にその意味合いが変化しています。これは民俗学者・谷川健一「常世論 日本人の魂のゆくえ」(一九八三年)や昆虫学作家・小西正己「古代の虫まつり」(一九九一年)でも語られることですが、この時代の常世は「海のむこうの故郷(海外)」であり、「日本国内(畿内)」であり、先祖の望郷の念が込められた地という概念になっています。死後は魂となって、かつて先祖の生まれた故郷へ帰るという考え方ですね。この後仏教の布教によって、仏教的な死後世界の概念が流入するのですが、古代日本の死後世界思想は諸外国とは少し違った趣を含む可能性があります。
では日本に殉死はなかったのでしょうか。「魏志倭人伝」には、卑弥呼の死に際して百人程度の奴婢(ぬひ)を殉死させたという記録があります。(注7)古墳には馬の殉死があったと思われる形跡が見られ、馬が殉葬されていた可能性があるようです。ただ、人間の殉死の実在は不明とされます。
ただ、殉死の概念や知識自体が中国経由で存在していたことは間違いないようで、「日本書紀」にも殉死について書かれている部分があります。これは「日本書紀」垂仁天皇紀二十八年年の条及び三十二年の条です。
(意訳)
「日本書紀」垂仁天皇紀二十八年年の条です。
二十八年の冬十月五日に、天皇の母の弟(叔父)倭彥命(やまとひこのみこと)が亡くなられた。
十一月二日、倭彦命を身狹(むさ)の地の桃花鳥坂(つきさか)というところに葬った。
この時に、近習者(このえのもの)を集めて生きたまま墓のまわりに埋めた。
しかし生き埋めのまま数日経過しても死なず、昼夜泣き喚いた。
遂に彼らは死に、腐り果て、それを犬や鳥が来て貪った。
天皇はこの泣き叫ぶ声を聞いて大変心を痛められ、
「生きている間に愛された人たちを殉死させることは辛く痛々しいことだ。古いしきたりであっても、このようなことを続ける必要はない。今後、殉死は取りやめるように。」
と申された。
続いて「日本書紀」垂仁天皇紀三十二年年の条。
三十二年の秋七月六日、皇后である日葉酢媛命(ひばすめのみこと)が亡くなられた。
葬儀まではまだ日数に猶予があり、天皇は家臣に対し、
「前回の葬儀で殉死が良くないことであるとわかった。今回の葬儀はどのようにしようか。」
と言われた。これに対し野見宿禰(のみのすくね)は
「墓に生きているものを埋めるのは良くないこと。これからは、このようなことを行うべきではありません。適当な方法を考え、奏上いたします。」
と進言した。
彼は早速、出雲国の土部(はじべ)を百人ほど呼び集め、彼等に命じて埴土(はにつち)で人・馬などの様々な形のものを作り、それを天皇に献上した。そして
「これからはこれらを生きた人間のかわりに陵墓に埋めることにしましょう。」
そう言った。
天皇は野見宿禰(のみのすくね)の案を
「お前の便宜は素晴らしく、誠に私の意を得ている。」
と大いに喜ばれ、早速これを葬儀に用いた。
この埴土でつくったものを埴輪(はにわ)と呼び、また立物とも言った。
そして天皇は
「これからは、陵墓には必ずこの埴輪を用い、殉死をさせてはならない。」
と命じました。(以下略)
以上が「日本書紀」に見られる殉死・殉葬に対する逸話です。これは殉死があったとされる逸話であると同時に埴輪の起源を説明したものでもあります。こう見ると「日本には殉葬があった」と思いきや、このストーリー自体が後世の捏造であるという説も存在します。この場合の主張は歴史研究のひとつのセオリーとして「あった証拠が無い=無いとみなす」ということになるのでしょうか。
殉葬の禁止自体はこれ以外にも日本の古代史で何度か見ることができますので、間違いなく概念は存在しています。しかし、本当にあったのかどうかは不明ということになります。
ちなみに殉死は江戸時代まで「切腹」「義腹(ぎばら)」等々の名で存在します。これは武士が主君に忠義を尽くすことへの表現方法としてのもので、死後世界等には関係が薄く、死後世界信仰に基づくものではありません。
また、有名な中国の「兵馬俑(へいばよう)」(注8)というものがあります。古代中国の陵墓(りょうぼ)から発見された、兵士や馬を象った膨大な数の埴輪のような副葬品です。厳密には、埴輪よりも凄まじい精巧さと物量を誇ります。これは日本の埴輪と同様の目的のものではないかといわれています。
神人共食・食人とは
人間が亡くなった後に滅ぶのは肉体だけであり、霊魂が存在するという考えは全世界に見られるもので、死んで無になるという考え方をする文化や信仰のほうが珍しい。これに関して科学を盾にとって死後は無だと主張する日本人は多いですが、そもそも現時点では科学の及ばぬ死後の世界を語っている時点で、その人間の語る科学はすでに信仰と化しています。
原始から存在する自然信仰にはいくつかの信仰対象が存在しますが、その中に「祖霊信仰」というものがあります。これは祖先の霊に対する信仰で、非常に原始的な信仰であり、もちろん日本にも存在します。この信仰の存在自体が、人の魂の死と肉体の死を切り離して考えていることを表しています。
例えばネイティブアメリカンのホピ族は予言で有名な人々ですが、彼らは原始的な祖霊信仰を持ちます。ホピ族の信仰では、死後の魂(スピリット)はまず大地に還ります。その魂はやがて水分のように太陽の光と熱で蒸発し、空に上って雲になり、この雲が先祖そのものなのです。雲は子孫たちを見守り、時に恵みの雨を与えます。この雲はかつての人の魂であり、先祖たちで、彼らはまた時を経て再び人間として生を受けます。これをひたすら繰り返すのが、ホピ族の生死観と信仰です。ただ、ネイティブアメリカン全般に言えることですが、彼等は所有の概念が薄いのです。現在の彼らはそうではなくなってきているらしいのですが、元々のネイティブアメリカンの文化には所有の観念が薄く、死後の世界に何かの物質を持ち込んだり与えたりする発想が存在しません。これは、人間の本体は霊魂であり、肉体はその付属品にすぎないと考えるからです。
死後の魂に物質的な何かを与えることを重視するのは、古代西欧、インド、エジプトなどでしょう。特にエジプトでは、肉体が朽ちてしまうと魂は宿るべき場所を失ってしまうと考えました。ですからミイラなど、肉体を朽ちさせない方法に人間の復活の可能性を見出そうとしたのです。(注9)
西欧・インドでは祖先の祭典の日には祖霊が帰り、そこで霊魂はお供え物を飲み食いし、そのお礼として、今を生きている子孫の幸福が手助けされるものと考えました。日本のお盆も同じような考え方ですね。北米のエスキモーにも似た思想が存在します。ジェームズ・ビー・スミレーは、これら思想が遺骸や墓のそばに花や食べ物を供える習慣に繋がったとしています。
目に見えない霊魂が人と同じものを食べる。そして目に見えない神も、人と同じものを食べるのです。日本人は神や仏に供えたものを、そのあとに下げて食べるという風習を持ちます。これを「神人共食(しんじんきょうしょく)」といいます。これは現在でも葬儀の際や、神社の祈祷でも当たり前のようにおこなわれています。神社の場合は酒や餅や米、仏教行事であれば米や漬物などですね。家に神棚がある人なら、神棚に供えた米を捨ててはいけないといわれた人もいるかもしれません。私の家族は毎度カピカピになったご飯を食べていたので、本当にすごいと感心しましたが…。
この神人共食の目的は、単純に神と食卓を共にし「同じ釜の飯を食う」ことで親しくなるという考え方もありますが、神に捧げてその力の宿った食べ物を人が食べることでその力を得る、という考え方も存在します。このような共食文化はアジア圏にはありますが、中村生雄「日本人の宗教と動物観」(二〇一〇年)ではキリスト教圏には無い風習と述べます。
この極端な考え方が、いわゆる「食人」です。日本で宗教的意味の伴う殺人や食人があったのかどうかは不明です。エドワード・シルベスター・モースは大正時代に来日し、縄文時代の古代日本に食人が存在した可能性を発表していますが、これはあくまでも一つの可能性であり、宗教的意義があるのかどうかも不明です。
ただし人体の一部を食べるということであれば中世日本でもおこなわれました。横山流星「生殖器神の研究」(一九二一年)では、中世に病気治癒の為に切り落とした男子の陰茎などを煎じて服用したことについて、日本をはじめ、朝鮮半島において盛んに信じられた迷信であると述べています。これは、生命を司る陰茎自身に神秘的な霊力が宿ると考えられておこなわれた習俗です。(注10)
実は食人の主な動機はここにあります。これは神人共食とも共通する部分があるのですが、人間には対象を食べることで、その対象物の持つ霊的なパワーを取り込む能力があると広く信じられたのです。ですから例えば、人間に神霊を宿らせてその人間を食べるという発想はどうでしょうか。平凡社「世界大百科事典」第一巻(一九三一年)及び、宗教学者・加藤玄智『仏教史学』第一編第九号第十号「本邦供犠思想の発達に及ぼせる仏教の影響を論じて柳田君に質す」(一九一二年)及びイギリスの考古学者ジョン・ラボック「Ori-gin of Civilization(文明の起源)」(一九七八年)より、メキシコの人身御供の例を紹介します。
メキシコ原住民は年に一度、彼等の神であるテッカトリポカの大祭に犠牲を必要とします。外敵・外部族の青年を捕らえ、これを捕虜としますが、彼らの内から選出される場合もあるようです。この捕虜の青年に対し、彼等は惜しみない尊敬と接待をおこないます。これは現人神としての尊敬で、神同然の待遇です。彼が死を迎える二十日前(四か月前との表記もあり)、更に四人の処女を与えられ、快楽のままに好き放題を許されます。しかし大祭の当日に彼は容赦なく殺害され、全身はバラバラに解体されます。特に腕・足の肉は王族や首長など地位の高い者の食卓に並び、皆それを食べるのです。この風習は古代バビロニアにも存在しますが、歓待を受けるのは五日間だけだったようです。
この目的は無論、食によって神の霊性を継承することにあります。形式や作法は違っても、食人を信仰上おこなう場合、神性の継承が目的である場合がほとんどです。食人ではありませんが、日本でも動物を犠牲に奉げたあとはその動物を皆で食するということがありました。これは仏教伝来と普及によって数度に渡って禁じられはしたものの、習俗自体は細々と幕末まで残っていたようです。
信仰が近代性を帯び、教義的宗教に変化・台頭しても、その中にこの片鱗を残す場合も多々あります。キリスト教の聖餐にて飲食するパンと葡萄酒はそれぞれイエスの体と血を表しています。有名な話ですが、これも原始宗教の「神性を食らう」その変形であるとされます。
また、これら発想に似たものですが、北米グリーンランド原住民オジプヤ族は、自らの祖先を動物であると考えました。しかしそれは狩猟対象でもあります。先祖から受け継いだ血が薄まって力を失わないためには、狩って食い続けなければならないのです。彼らにとって神は動物で、そこに神性はあるけれど、不滅の存在ではなく神にも生命がある。だから殺して食い続ける。
神が一体どのようなものであるのかということは、文化や信仰によって様々です。しかしその神を殺して食う。神に見立てて殺して食らい、その霊性を得るという思想自体は普遍的なものなのです。これは何も神だけには限らない。食べたものが自分を作り、何らかの影響を与えると信じている人が多いからこそ、現代でも効果がいまいち実証されていない健康食品や、食べ方によっては危険なオーガニック野菜であっても、なぜ、どう危険なのか調べもせずに健康だと信じて食べたりするわけです。食は生命の源であり、食がなければ人は生きていけません。だからより特別なものを食らおうとします。
最後にもう一つ、食人ではないのですが、相手の霊性を取り込む方法があります。それは、魂を捕獲し縛り付けることです。先に少し説明しましたが、ネイティブアメリカンなどは肉体的なものよりも、魂の側こそが人の本体であると考えました。なら殺した相手の魂は、何らかの方法で縛り付けて自分のものにしてしまえば良いのです。そんな雲をつかむような方法は「干し首」という有名な習俗として存在します。私が干し首を最初に知ったのは、「アウターゾーン」という光原伸氏の漫画でした。読んだのは子供時代だったので、結構トラウマになりました。
干し首とは南米アマゾン流域先住民の文化で、現地ではツァンツァと呼ばれます。ニュージーランドにも同様の文化が存在しています。まず、殺した敵部族の者の首を切断。後頭部を開き、頭蓋骨を抜き取ります。目や口などは縫い合わせ成形し、それを数種の薬草などで茹でてから乾燥します。するとこの工程によって頭部は委縮し、首からかけられるくらいの大きさにまで縮みます。この製作には宗教的儀式が伴い、明確な宗教的意義のもとに作成されました。(ただし後に工芸品としての販売目的でも制作されました。)
この宗教的意義とは、相手の魂を縛り付けることです。このようにして作成した干し首を身に着け、相手の魂を支配し、従属させるのです。それがまた自身に新たな勝利と幸福をもたらす。一見とても残忍な習俗ですが、その本質は人柱と変わりません。殺して魂を意のままにし、それを自分たちの守護に用いるという点では違いはないのです。食べるか埋めるか、それだけです。
神や先祖への使者・入社儀式・伝説の再現
これは少しレアケースとで、かつてアフリカに存在した珍しい部類の人身御供です。
神や、没した先祖とコンタクトを取りたい時、どうすれば良いのでしょう。死後世界があると信じていても、それらは目に見えるわけではありません。アフリカでは神霊の憑依現象も存在しますが、それらよりももっと確実な方法が存在します。死者に伝言を頼めば良いのです。人が亡くなって魂が体から離れ、霊魂となって先祖の霊に再会できるのであれば、その時に伝えたいことは代理で伝えてもらうのが最善手です。ですからアフリカでは災害や禍事などがあり、神霊にそれを止めて欲しい・改善してほしいと願う時は、既に臨終の淵にある人に伝言をお願いしました。
一般レベルであればこれで済むかもしれませんが、依頼主が王や権力者であればどうでしょうか。この場合は、神霊への伝言の為に人身御供を用意したのです。
アフリカにかつて存在したダホメ王国は、現在のアフリカのベナン(アフリカ西岸地域)に栄えた専制君主制の国です。十九世紀にフランス領となるまで存在し、世界史的には奴隷貿易で有名な国でした。建国は一六〇〇年代ですので、日本でいえば江戸時代初期あたりです。このダホメには、王は全ての政治決定を先祖の霊に報告する義務があるという一種の祖霊信仰が存在しました。この習慣はダホメ王国建国以前から長く続いていたとされますが、その起源は不明です。何らかの政治決定があり、それを祖先に報告する際は、戦争で捕虜にしていた者の中から伝言者を選定し、基本的に国民を犠牲にすることはありません。選定した捕虜に伝言内容を伝え、酒や食事をふるまって上機嫌になったところを一思いに殺す。若しくは殺してから伝えます。これは政治決定の都度おこなわれましたので、多い時は年間五百人程度が犠牲となりました。同様の風習はメキシコにも存在したといいますが、メキシコの場合実際の記録に残る上でもよくわからない理由で数万人の犠牲を捧げたりもしますので、人身御供用の捕虜のストックが欲しいという理由で戦争を仕掛けたりしていたようです。
あの世に旅立とうとしている危篤者に対し伝言を頼むという習俗自体は日本にも存在しますが、そのために殺すというのはレアケースでしょう。しかし頼むのが伝言か守護か赦しかの違いというだけの話で、本質的には人柱やその他の犠牲と大きく変わりません。
余談にはなりますが、秘密を共有する結社(ギルド・秘密結社・宗教団体・思想集団)への入社式で犠牲が捧げられることがあります。これには実際に殺人が行われたとみられるものから、拷問を伴う自白の強要などが原因で、やってもいない供犠をやったと偽証したようなものまで様々であり、実在性は曖昧です。またこれら団体は政治思想的背景を持つ場合も多く、単なる習俗とは毛色が異なります。事実、グノーシス派の犠牲とされるものには、実在性の怪しいものが多々あります。
そして、「伝説上で性器を切断される描写があるから信者も性器を切断して捧げる」といった神の模倣を行う、キュベレー・アッティス信仰のような場合もあります。