「おっとい嫁じょ事件」と「嫁盗み」習俗の誤解
※ この記事は、過去に実際に存在した事件に関連していますが、本筋は習俗自体の解説です。
※ 一部に、性暴行事件に関する記述があります。気分を害される可能性のある方は、くれぐれも閲覧を控えてください。
※ 軽い冗談程度のBL(男性同性愛)要素を含みます。
※ 登場キャラクターの紹介はこちらからどうぞ。
「おっとい嫁じょ」という風習か、実在の事件を聞いたことはありますか?
今や「検索してはいけない言葉」や、実際にあった強姦致傷事件の原因として、ヤバすぎる奇習の筆頭のような扱いになっている悪名高い風習です。
これ、正しくは「嫁じょオットイ(嫁を盗む、の意味)」なんですけど、ここではあえて、知名度の高い「おっとい嫁じょ」に合わせて表記します。
この風習は今や、様々な脚色がされて ”ヤバイ因習の代名詞” のようになっていますが、ネットではこの風習についてあまりにも一面的すぎる情報が溢れているのが現状です。
某動画投稿サイトとかでは、トンデモ見世物扱いの動画も多いし…。
もちろん、正しい情報を伝えようとされている方々もいらっしゃいます。
そういう有志の方(って言っていいのか?)に加勢するって訳でもないんですけど、今回は、そもそもこの風習が一体どういうものなのかという事を私なりに解説したいと思います。
なぜ「おっとい嫁じょ」が悪習・因習扱いされたのか?
1959年(昭和34年)4月。
鹿児島県で、一般的に「おっとい嫁じょ事件」と呼ばれる、婦女暴行致傷事件(当時の事件名)が発生しました。
この事件は、Wikiの誘拐婚のページに概要が書かれていますが、こちらでも簡単に説明します。
尚、手元の資料(当時の公判記録を7年後に書き起こされたもの)には本名や詳細住所も載っていますが、記載を控えます。
事件は、鹿児島県某町在住の男性A氏が被告(加害者)、同町在住のB子さんが被害者です。
A氏はB子さんに、結婚の申し込みを行ったが、B子はこれを拒否。
A氏は友人の応援でB子さんを自動車に押し込み、知人宅に監禁、暴力行為の後、二度にわたる性的暴行を行った。
問題はこの後で、これは昔からの「おっとい嫁じょ事件」という風習であることを理由に、この件に関して「無罪」を求める嘆願が加害者保護者や知人等から起こった。
実は誘拐婚・略奪婚系の事件はこれだけではなく、この前年にあたる昭和33年には岡山県でも似た事件が発生しています。
岡山の事件は略奪婚ではなく駆け落ちであると後に判明するのですが、鹿児島と同年である昭和34年6月には千葉でも類似の事件が発生し、どうやらこの年はことの他「誘拐婚・略奪婚」が注目された年だったようです。
さて、なぜこの事件(特に鹿児島の例)がここまで取りざたされているのかというと、
“これは昔からの「おっとい嫁じょ事件」という風習であることを理由に、この件に関して「無罪」を求める嘆願が起こった。“
この部分です。
なんと加害者の母親や近所の女性たちが「自分たちもオットイ嫁だった」と言い、教育長までが「オットイの仲介人をした経験がある」と、加害者側の無罪を主張しました。
後述しますが、本来の「おっとい嫁じょ」では、軟禁中の性交渉はルール違反です。
この事件は暴行事件ですので、この時点でこれは「おっとい嫁じょ」でも何でもありません。
この時点で無罪嘆願なんてどう考えてもオカシイんですけど、ではなぜ、このような齟齬が起こってしまったのでしょうか?
「元祖・おっとい嫁じょ」と「新・おっとい嫁じょ」
例えば、事件当時24歳だった加害者。
その母親は、大体1935年くらいには件の加害者男性を出産しています。
これは、「第二次世界大戦より前に、加害者の母親が、加害者男性を出産している=結婚している」ということでもあって、これはかなり重要です。
実は、鹿児島の「おっとい嫁じょ」は第二次世界大戦以前と以後で、二種類存在しています。
これは藤林貞夫氏の「性風土記」で紹介されている資料ですが、「サンデー毎日」昭和27年10月5日号及び「新日本地図5」昭和27年10月26日号に地元民によって報告されています。(報告は事件の7年前です)
この資料によれば、戦前の「おっとい嫁じょ」にはルールが存在します。
しかし戦後の「おっとい嫁じょ」は、略奪要素が強いです。
つまり、鹿児島の事件で無罪嘆願を行った人たちの全てとは言いませんが、一定数には「戦前の“マナーの存在するおっとい嫁じょ”に関わった」という層が含まれていた可能性があります。
尚、実は「おっとい嫁じょ」は別に鹿児島固有の風習ではありません。
東北から四国にまで似たような風習がかつて分布していた記録があります。
しかしその大部分は昭和までに失われたようです。
なので他の地域に二種類存在するかは謎ですが、「サンデー毎日」で事件の7年前に報告されている事例は、あくまでも鹿児島県での話です。
正しい「元祖・おっとい嫁じょ」の作法
まず、先ほども書きましたが「おっとい嫁じょ」は正式(?)には「嫁女オットイ」と言います。
オットイ=盗む、の意味です。
これに類似の風習は、大昔には東北から沖縄まで全国各地に存在し、それぞれの地方独自の呼び名がありました。
一例を挙げると、岩手ではオナドリ、埼玉ではカツグ、大阪ではボウタ、岡山ではカタゲ、沖縄ではカタミニービチなど…。
しかし、昭和まで残存したのが鹿児島県の一部地域だったという事です。
ですので、まず鹿児島独自の奇習みたいなレッテルを貼るのはやめましょう。
あなたのご先祖も、似た風習の結果に命を繋ぎ、あなたがこうやって存在しているのかもしれません。
「おっとい嫁じょ」発動には条件と段階があります。
- 娘の親が結婚に反対していて、娘自身も好意を持っていない。
- 娘の親が結婚に反対しているが、娘自体は望んでいる。
- 貧しくて、正式な結婚式の手筈を整える事が出来ない。もしくは、2件以上の縁談があり、どれを選んでも角が立つ場合。この場合は、親は内心賛成して、嫁盗みの実行を期待している。
このどれかに該当する場合、発動しました。
が、これも男性側の一存とノリで実行できるものでは無かったのです。
「元祖・おっとい嫁じょ」の流れ
では、実際にどういう感じの流れなのかを…全部書くと大変なので、簡単に要約して書きます。
この作法はあくまでも、鹿児島の一部地域で明治期に認識されていた方法です。
LEVEL1(第一段階)
① 青年は最初に地域の年寄衆と、青年団長にオットイの発動について相談する。ここで両方から賛成をもらって始めて発動が決まる。
② 青年とその友人数名、そして立ち回りが上手く腕っぷしの強い年配の男性“トリユイ”が、日暮れに娘の家の周囲で待機する。
③ 娘が出てきたら、青年が「話があるから」と誘い出し、正面切ってプロポーズをする。この時の娘の素振りから判断し、例え拒否されても、本心で嫌われていないという確信を持つことが出来ればそのまま友人数名の力を借りて強引にでも連れ帰る。
LEVEL2(第二段階)
④ 腕っぷしの強い年配の男性“トリユイ”は、娘の盗み出しが無事成功したところを見計らって、正面玄関から家を訪問し、家人を呼ぶ。
⑤ 「お宅の娘さんを〇〇〇村の〇〇〇の息子〇〇〇が家の仕事を手伝ってもらいに連れて行きました。」と宣言し、一目散に逃走する。これは、必ず通告しなければならないというルールになっている。
⑥ この宣言を行う事で、翌日まで娘の親はどのように身を振るのかを考える時間が与えられる。そして、この夜の娘の貞操は絶対に保障されるというルールもある。ちなみに、余程立腹・反対の場合は、この夜のうちに抗議を起こすことができる。
LEVEL3(第三段階)
⑦ 青年の家では地区の有力者を仲人に立てて、娘の家に向かってもらう。娘の家では大変に立腹しているため、丁寧に初対面の挨拶を述べるが、早々に追い払われる。この場合はすぐに引き上げる。
⑧ 二時間後、再び娘の家を訪問し、先ほどの事は無かったかのように再び初対面の挨拶からやり直す。これを縁談に進むまで一日に5~6回、毎日行う。
⑨ 大体どれだけ長くても1週間で根負けし、縁談は正式にまとまる。
以上が実際の「おっとい嫁じょ」の行程です。
私も別に実際に見たわけじゃないし、これも要約してるんですけど、なんとなく「ガチで激おこプンプン許さん状態」の場合は、⑥の段階で相手の家に正式に抗議するみたいですね。
だってこれLEVEL3って、多分嫁側の家のメンツとして対外的にやってる「あ~~こまるぅ~~これだけされたら折れないわけにはいかないし~チラッ」でしょ?
戦後と戦前では習俗の内容と目的に隔たりがある
上に書いた「おっとい嫁じょ」は、あくまでも明治頃まで伝わった方法ですが、実は第二次世界大戦後では様相が変わってきます。
そもそも婚姻形式に限らず、性に関する考え方は、明治から昭和中期あたりのたった80余年あまりでガラリと変化しました。
その風潮は別に嫁盗みの風習だけではなく、たとえば「夜這い」の文化の意味も戦前戦後で大きく違う形に変化させ、果ては消滅してしまいました。
では、戦後の「おっとい嫁じょ」はどのような変化を遂げたのでしょうか?
昭和になると、山村の隅々まで民主化の波が押し寄せ、次第にこのような前時代的な風習も廃れていきます。
そして1945年(昭和20)に第二次世界大戦が終戦し、復員引き上げが始まりました。
つまり、戦争へ行っていた男性たちが、故郷へやっと帰ってきたのです。
これは昭和20年から13年間に渡って続きましたが、概ね2年でほぼ帰宅したと言います。
非常にめでたい事のようですが、現実はそう手放しで喜ぶばかりではありませんでした。
それは貧困と結婚難の到来です。
戦後、第二次世界大戦後の日本を統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の農地改革で、日本の農地は細分化されました。
これにより、長男だけならともかく、帰って来た次男三男の農地分配や婚姻費用の面倒まで見ることができなくなりました。
まぁ早い話が「戦後めっちゃ貧乏になった実家に、死んだと思ってた次男三男まで帰ってきて、金がない!!!!」という事です。
ただでさえ貧しいのに、結婚費用なんてとてもじゃないけど出せない状況になったんです。
それまでは農村でも比較的豪華な婚礼がブームになっていたそうですが、これにより、そもそも結婚どころではなくなってしまった。
しかし田舎には娯楽も無く、基本は早婚。
嫁も貰わせてもらえず、いつまでたっても家に縛り付けられる次男三男四男五男…。
このような状況で、いつしか再び違った形で「おっとい嫁じょ」が復活したと言います。
なぜなら、奪って来た娘を息子たちにあてがえば、結納も無いし、高額な婚礼費用を負担することはない。
この復活版「おっとい嫁じょ」はかなり遠方の村からの誘拐もあったようなので、娘の両親も娘自身も諦めてしまうという実情もあったようです。
完全にこれは風習としての「嫁盗み」ではなく、もはや「略奪婚」の域に入ってると思うんですが、ここでも唯一の絶対守るべきルールとして「同意が無い限り貞操を絶対に保障する」というものがあったそうです。
この報告は昭和27年ですので戦後7年の話で、実際に報告者が見聞きした実例も載っています。
そこには、警察も介入せず、上手くいっている夫婦ばかりのような事が書いてありますが、本当にそうなのかどうかは…個人的には怪しいと思ってますが…私はね。
とは言えこれで分かった事は、鹿児島の事件の加害者母親は、時期的には旧来の方の、儀式色の強い「おっとい嫁じょ」で嫁入りしたということです。
当然、このような事件は絶対に許されるものではありませんし、オットイであったとしても鹿児島の事件は絶対にルール違反です。
しかし、実際に嘆願書が出されたという事は、既に当時「おっとい嫁じょ」のルールが風化していく中で、このような風習があったとか経験したという中途半端な情報を加害者に与えた挙句の、間違った村社会の仲間意識。
そして加害者が自分に都合よく解釈し、この事件を起こしてしまった事は間違いないと思います。
嫁盗み婚は全国各地に存在する
先程少し書きましたが、このような、略奪や誘拐とは本質的に異なるような「嫁盗み婚」は全国にありました。
分布は、北は青森から南は宮古島まで存在します。
民俗学者・柳田国男氏曰く、そのほとんどは、双方の家では裏で合意が済んでいるもの・娘が了承しているものが大半です。
「万葉集」巻第十四東歌の中にも、嫁盗みを期待するような歌も存在しているので、大昔は日本の中では比較的定着したひとつの婚姻の方法だった可能性が高いです。
(ただし貴族社会と民間の価値観は同一ではあり得ませんが。)
鹿児島がもっとも近代まで残っていた例であったとしても、なぜこのような結婚手段が全国に存在したのかというと、これには本当に様々な説を様々な先人が提唱されている上に、記録が非常に乏しいのです。
だから、どれが正しいとはわからない状態です。
一般庶民は自由恋愛だった、昔の日本
現在、多くの人がイメージしているほど、昔の人々は強制結婚ではありませんでした。
よくネットの意見で「昔は皆婚社会(かいこんしゃかい)だったから~」とか言いますが、それは明治以降の比較的近年の話であると言われています。
地域にもよりますが、皆婚社会の筆頭みたいに思われてる農村でも、変人は結婚できなかったり、女性優位で離婚を繰り返す様子も民話内に垣間見えます。
特に、圧倒的男性余りと言われる江戸時代の江戸や、男性不足の離島・山間部に至ってはそれが故の独自文化もあります。
まぁそんな感じもあって、貴族間での結婚と違い、一般庶民の恋愛は比較的自由でした。
室町時代でも、貴族であれば初対面の相手と結婚をすることも多かったようですが、このため出来た風習が「三々九度(さんさんくど)」であると言われています。
これは、初対面の相手といきなり夫婦になるというための一種の「契約」「禊(みそぎ)」として「三々九度」という儀式を行ったわけですが、恋愛結婚が珍しい事では無かった庶民の間では、この三々九度すら長らく定着しませんでした。
同時代、まだ庶民の間では地域差はあれど、「嫁が生家で死ぬまで暮らして、夫がそこに通う」という夫通い婚も現役だったので、嫁盗み婚が発生・定着したのはもっと後の時代ではないかと思います。
※ちなみに、これには様々な説があります。そんなもの存在しなかったという人もいます。
貴族の常識が庶民に降りてくるためには時間がかかります。
父権が強い貴族や武家の“当たり前”が、庶民に降りてくるのは、もっと後の話でした。
やがて時代と共に、地域差はあれど、一般庶民にも父権社会が訪れます。
「嫁盗み婚」は、父権の強い社会でこそ“みんなを納得させて恋人同士が結ばれるために”真価を発揮する婚姻方法だからです。
正しく風習を知ることが大切
話を鹿児島の事件に戻しますが、これは風習を勝手に言い訳に用いて行っただけの犯罪行為です。
見て頂ければわかる様に、本来の「おっとい嫁じょ」とは似て非なるものです。
ましてやこの犯罪行為に対し無罪を求める嘆願なんてちゃんちゃらおかしい話なんですが、それを出すに至った理由は、この風習にあったことも事実です。
ただ、このことから、「おっとい嫁じょ」は非常にセンセーショナルで、悪い意味で取り上げられやすい風習でもあります。
現在、ネット記事では「おっとい嫁じょは実際に鹿児島に実在した異常な奇習だ」という事を当たり前のように書かれています。
ただ、長く続く風習には必要とされる意味があります。
戦後にゆがんだ形で復活した「おっとい嫁じょ」でさえ、貞操は絶対守るというルールが存在していました。
犯罪行為は絶対に肯定できませんしするつもりもありません。
しかしその前に、「どうして?」「なぜそういう風習があったのか?」って、少しだけ考えて欲しいと、個人的には思うのです。
ほとんどの習俗は、最初に発生した形から本来の意味を失い、次第に形式だけが残って、その形式を簡略化するというプロセスを辿ります。
そうして簡略化されたものだけを見ても、その真意はわからなくなっている場合が多いです。
この事件は、非常に悪い意味でこのプロセスを辿ったのではないかと思います。
そういった点から考えると、「現在わからなくなっているが形だけ残っている習俗の中からは、とても大切な意味が失われている」という逆の考え方も出来ると思います。
私はここに、「オルフェウス(ギリシア神話)と黄泉比良坂(古事記)の類似点」なんかも関係あるんじゃないかと思ってます。
ちょっとエクストリームかもしれないけど…。
そもそもこの「性崇拝」という記事カテゴリの本来のお題である「性崇拝」の性神自体も、本来の意味を見失った結果、時代の流れの中で抑圧・排斥された神だからです。
「おっとい嫁じょ」は性崇拝ではありませんが、一応性に関する習俗としてこのカテゴリに書きました。
次回はそんな、「性神が排斥された過程」について書けたらいいなと思っています。
参考文献
「民俗民芸双書 性風土記」藤林貞雄
「まぐわう神々」神崎宣武
「タブーに挑む民俗学―中山太郎土俗学エッセイ集成」中山 太郎 (著), 礫川 全次 (編集)
「今だからこそ知りたい結婚と性行為の歴史」鳥山 仁(他)